富田林町と東条村の戦没者

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富田林町の「戦没者告知綴」は、昭和一七年(一九四二)四月に富田林町と新堂村・喜志村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方村の一町六村が合併して以後、同町に通知があった戦没者に関する文書を綴じたものであり、二四冊が現存している。文書のほとんどは戦死または戦病死の通知、遺骨の引き渡しや出迎えと町葬に関する書類である。ほかに、昭和二一年一〇月一日現在の「未復員者名簿」と二三年七月一日現在の「富田林町陸軍軍人軍属未帰還者名簿」が現存している。これらの簿冊を見ることによって、一七年四月通知の一六年一二月における中国での戦死者二人の氏名と、一七年四月以降における同町の戦没者のうち、五〇五人の氏名を知ることができる。死亡通知を受けた先の主な機関は、大阪聯隊区司令官・呉海軍人事局・中部第二三部隊長・中部第二七部隊長などであり、戦後は大阪地方世話部・呉地方復員局・大阪府知事などであった。

写真105 「富田林町陸軍軍人軍属未帰還者名簿」と「未復員者名簿」(富田林市所蔵)

 表80は、一七年四月以降の氏名がわかる戦没者五〇五人について、年ごとに戦没者数を記したものである。これを見ると、昭和一九年に戦没者が急増していることがわかる。翌二〇年と合わせると八割を超える四一八人が両年に集中していて、戦局の悪化を物語っている。昭和二〇年の戦没者二一三人のうち二四人は、八月一五日以降に死亡している。

表80 富田林町の戦没者数
年次 戦没者数
昭和17 14人
18 41
19 205
20 213
21 15
不明 17

注)「富田林町戦没者告知綴」「未復員者名簿」「富田林町陸軍軍人軍属未帰還者名簿」から作成。

 五〇五人の死没場所は、フィリピン一三六人、中国九二人、南洋諸島七四人、ニューギニア五七人、マレー・インドシナ地域四五人、日本本土二九人、沖縄一二人、インド三人、硫黄島三人、シベリア三人、その他の地域三三人、不明一八人であった。また、陸軍軍人三七六人、陸軍軍属七人、海軍軍人八六人、海軍軍属一九人、不明一七人であり、うち、戦病死と記されているもの一二五人、妻帯者と確認できるもの一五五人となっていて、戦争の苛烈(かれつ)だったことがうかがえる。

 なお、東条村の「戦没者台帳」には、明治期の戦没者二人と、日中戦争・太平洋戦争の戦没者八九人の氏名が記されている。表81は、日中戦争・太平洋戦争における各年の戦没者数を示したものである。やはり、一九年と二〇年に戦没者が集中していることがわかる。死没場所は、中国二三人、南洋諸島二六人、フィリピン一八人、マレー・インドシナ地域三人、沖縄一人、硫黄島一人、シベリア一人、その他の地域一三人、不明三人となっていて、戦死五九人、戦病死二三人、不明七人であった。

表81 東条村の戦没者数
年次 戦没者数
昭和12 1人
13 3
14 1
15 1
16 3
17 6
18 1
19 45
20 24
21 2
不明 2

注)「東条村戦没者台帳」から作成。