大正一一年(一九二二)三月三日、京都市岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開かれた。社会の最底辺に位置づけられ、身分的生活的差別に苦しめられていた被差別部落民が、人間らしく生きることを求めて、全国的結集をなし遂げたのである。従来の改善運動から部落民自身の力による解放運動への転換であり、人間解放のためのたたかいが始まったのであった。南河内郡新堂村からも、北井正一・桜井徳光・中島範次ら、青年たちが参加した。
新堂村では、大正二年三月、部落の発展を目的とする融和団体の青年協心会が発足していた。発会式は四月一一日、部落出身の前衆議院議員森秀次をはじめ、南河内郡長・富田林中学校長・実科高等女学校長らを招いて挙行された(『明治之光』七)。
次いで大正八年、向上会というグループが生まれた。向上会を設立した円光寺の樹林順行は、「青年会創立当時は所謂(いわゆる)其の筋の指導が非常に力となった」「青年会の役員は恰(あたか)も其の筋の走狗(そうく)の如き噂があり、青年会の中堅と一般民衆との意志の疎通を欠き、一般民衆はこれを呪詛(じゆそ)し、青年会は一般民衆を眼中におかない」と批判した(『警鐘』一の二)。彼は、わざわざ、「其の筋」というのは、「少しおかしいが役場・郡役所・警察署等を含む」とかっこ書きで解説している。「私達も同じ人間なのだ。人間である以上、向上を云々し、改善を企画するのである」と訴えて、部落側にだけ求められる従来の改善運動から脱却した「人間としての解放」を求めた(『警鐘』二の二)。部落の青年たちを集めて、月一回の講演会が円光寺で行われ、機関誌『向上』を出していた。このような中から、解放運動への動きが生まれてきたのである。
全国水平社創立大会に参加した青年たちは、新堂にも水平社を結成しようと活動を開始した。全国水平社の中心人物である西光万吉や阪本清一郎らと連絡をとりながら準備を進め、平野小剣の助言もあって河内水平社(のち新堂水平社)と称することになった。河内水平社の結成大会は大正一一年七月一四日、円光寺で開かれた。本堂はいっぱいになり、堂外にあふれた。参加したのは老若男女約五〇〇人といわれ、小学生の姿もあった。開会が宣言されると、積もる思いがこみ上げて、人々はみな泣いたという。委員長に北井正一、副委員長に中島範次、書記長に丸本富、そのほか執行委員を一〇人ばかり選んだ。大阪府水平社の創立は一一年八月五日であった。河内水平社が結成されたのはそれよりも早く、梅田水平社、舳松(へのまつ)水平社に次いで大阪では三番目の水平社が新堂村に生まれたのである(大阪人権博物館編『大阪の水平運動と活動家群像』)。
河内水平社の動きは活発であった。大正一二年四月六日、円光寺に約三〇〇人を集めて、水平社趣旨宣伝演説会を開き、同年八月一六日には、富田林町美吉座に三〇〇人が集まって、河内水平社大会を開いた。栗須七郎・西光万吉・駒井喜作・泉野利喜蔵・山田孝野次郎ら、水平運動のリーダーたちが演説した。青年たちは自転車にのぼりを立てて走り、宣伝ビラを配付した。
また、社会問題講習会や社会問題大講演会が円光寺や北井正一宅・桜井徳光宅などで頻繁に開かれ、細迫兼光・杉山元治郎・山本宣治・秋田雨雀・布施辰治らが講師として招かれた。在日朝鮮人高順欽・崔善鳴も招いて、話を聞いた。水平社と朝鮮人の連帯も考えられていたのである。
大正一三年三月には、小学生を中心に約六〇人で新堂少年水平社が結成された。翌一四年三月、新堂婦人水平社が生まれた。