ワシラノシンブン

401 ~ 403

河内水平社(新堂水平社)は、演劇・新聞刊行・映画・講演会などの文化活動にも力を入れた。それには、倉橋仙太郎の「新文化村」「民衆劇学校」と、難波英夫が編集発行する『ワシラノシンブン』の影響が大きかった。

 倉橋仙太郎は、大正六年(一九一七)四月に沢田正二郎と新国劇を創立した人物である。八年秋、病に倒れた倉橋は母親の実家近くの南河内郡野田村(現堺市)に移り住んでいた。一一年秋ごろ、健康を取り戻した彼は、自宅付近で「新文化村」の建設に着手するとともに、「民衆劇学校」という演劇塾を自宅で開いた。集まった研究生の中には、後に日本映画界で活躍する大河内伝次郎や原健策などもおり、すぐれた俳優が育った(北崎豊二「倉橋仙太郎と新文化村―大阪における『新しき村』運動について―」『堺研究』二二)。

 『ワシラノシンブン』は、第一号が大正一三年七月一五日に発行された。「ワシラノシンブンは、ワシラの舌の代理である。そしてワシラの学校でもあれば、遊び場でもある」「ワシラはワシラの足で立たねばならない。ワシラノシンブンはワシラがワシラの足で立ち上がる最初のうめき声である」と宣言した。編集発行人の難波英夫は、『東京時事新報』を経て『大阪時事新報』の社会部長をつとめていた時に、全国水平社創立を準備していた西光万吉や阪本清一郎・駒井喜作らと知り合った。大正一一年二月二一日に大阪中之島公会堂で開かれた大日本平等会創立大会が、三月三日開催の全国水平社創立大会を宣伝する場となったのは、難波の協力による。彼は、記者をやめて「新文化村」へ移り住み、水平運動の全面的な支援者となったのであった。

 『ワシラノシンブン』第一号には、沢田正二郎と倉橋仙太郎の連名で「新民衆劇」の宣伝が掲載されていた。「もつと生活と縁の深い、もつと面白い、明日の仕事の何かを教へてくれる様なよい芝居」と書かれていた。新堂の水平社同人たちは、この趣旨におおいに共鳴した。

 大正一三年九月から一〇月まで、ワシラノシンブン社富田林支局が北井正一宅に設けられて、ワシラノシンブン本社と富田林支局主催でこの新民衆劇の公演が実施された。九月八日から三日間、大鉄(大阪鉄道、現近鉄南大阪線・長野線)富田林駅前に大きなテントが張られ、四回の公演で観客は六〇〇〇人を超え、大成功であった。西光万吉の作品「天誅組」も上演された。富田林での好評ぶりに、長野町(現河内長野市)からも公演依頼があり、九月二四日に長野有楽座で、二九日・三〇日には三日市錦座で公演し、三重県の松阪や上野までも遠征した(『ワシラノシンブン』大正13・9・15、10・1)。

 新民衆劇公演の開催を知らせる『ワシラノシンブン』第四号(大正13・9・1)に、「夜業女工の賃銀値上要求」の記事がある。河内紡績株式会社富田林工場では、機械の調子が悪くなって夜業を中止していたが、昼業に新たに女工を募集し、それまでの女工たちは夜業に回され、しかも収入が下がったことから八月二五日ごろに賃金値上げを会社に申し出た、というものである。無理な夜業を続行したことから、一〇月一四日午前二時、こわれた部品が顔面を直撃し、「眼球とび出す」事故が起きてしまった(『ワシラノシンブン』大正13・11・15)。

 『ワシラノシンブン』は、民衆劇の公演の成功や一般の人々の立場を代弁する記事によって部数は増え、多い時には約一万部を発行した。しかし、読者は増えても購読料の支払いが滞って出せば出すほど赤字経営という状態にあった。難波が私財で賄っていたものの、ついに、大正一四年一一月五日の第三〇号(大正一四年三月、『解放新聞』と改題)で休刊に追い込まれたのであった。

写真107 『ワシラノシンブン』 第6号(不二出版発行復刻版から転載)