糺弾闘争

403 ~ 405

水平運動にとって、差別者に対する糺弾(きゅうだん)は重要であった。北井正一を代表とする新堂水平社も糺弾闘争を展開した。糺弾闘争は、被差別部落民にとって人間性奪還のたたかいを意味した。糺弾される側は自らの言動を反省するよりも、「部落は怖い」という印象を持つこともあった。そのような印象を助長する事件が、大正一五年(一九二六)の夏に起きた。

 ことの発端は同年四月にさかのぼる。大鉄電車内で、聞くに耐えない差別暴言をしている一団があった。水平社同人で信太山(しのだやま)の第四野砲兵聯隊(やほうへいれんたい)に所属していた山岡喜一郎がたまたま乗り合わせていたが、所属隊へ戻る途中だったので、その場での反論を我慢し、その一団が南河内郡川上村(現河内長野市)の在郷軍人会であることを確認するにとどめた。

 その後七月、退役した山岡は、この件を新堂水平社同人に伝えた。新堂水平社は川上村の村長や在郷軍人会川上村分会などを相手に何度かの交渉を持った。その結果、帝国在郷軍人会川上村分会の名前で、新堂水平社と全国水平社に対して謝罪広告を大阪毎日新聞と大阪朝日新聞に出すことで解決するかにみえた。ところが、在郷軍人会を指導する立場にある堺聯隊区司令部が謝罪広告に反対し、新堂水平社の糺弾を恐れた川上村では村の出入口各所に検問所を設け、警察官がその任に当たった。全国水平社本部や各支部も新堂水平社の糺弾闘争支援に乗り出し、全国各地の水平社の耳目を集める事件となった(『大阪時事新報』大正15・7・15、同7・20、『水平新聞』大正15・7・30)。

 七月末、差別発言をした個人名で謝罪広告を出すこと、在郷軍人会川上村分会名で水平社に対して謝罪状を出すことで、この事件そのものはようやく決着したかにみえた。

写真108 事件を伝える記事 (『水平新聞』第9号、世界文庫『部落問題資料文献叢書』第4巻から転載)

 ところが、八月一七日、北井正一をはじめ山岡喜一郎・大串孝之助ら新堂水平社同人に加え、大阪から来ていた石田正治・山田竜平を含む二十数人が「安眠妨害と無銭飲食」で富田林警察署に逮捕・拘留された。一四日と一六日の両日、富田林町のカフェー一富士で無銭飲食し、店主や店員に暴行し脅迫したというものであった。

 予審調書によると、八月一四日午後一二時ごろ、新堂水平社の大串孝之助と山岡喜一郎が一富士で飲食した際に、店主や客と一悶着あったが、その場はひとまず収まった。翌一五日午後、大串孝之助宅で新堂水平社同人に大阪からの客人である石田正治らも加わって会合を持ち、その後、一五日から一六日にかけての深夜、川上村在郷軍人会糺弾闘争の勝利を祝って大勢が一富士で飲食し、革命歌や水平歌をうたったりした。この一連の一富士での行為が「業務妨害」だという。

 逮捕の背景について、『水平新聞』(大正15・9・1)は、「川上村分会の差別事件に徹底的糺弾をなし、本月二十日を期して水平社青年先駆者聯盟を組織し、今後花々しき活動に入らんとしている新堂水平社をば、今のうちに叩きツブしてしまわんとする魂胆である。かれらは活動的な水平社に対しては剣をもってこれを暴圧し、非活動的な水平社に対しては融和団体を使って切崩しに努力するのである」と論じている。

 同年一二月一八日、大串と山岡は懲役八月、北井と石田は懲役六月の実刑判決が言い渡された。ほぼ同時期に和歌山県那賀郡で起きた沖野々事件では、一審で栗須七郎は罰金三〇〇円、ほかの同人七人も懲役三~四か月の判決を受け、控訴したが有罪判決はくつがえらなかった。これに比して、新堂水平社の事件は、山岡らが仮に予審調書どおりの行動をしていたとしても、傷害事件ではない。たかだか「営業妨害」に対して、この実刑判決は重すぎる。こうして新堂水平社は幹部が獄中生活を余儀なくされ、活動はほとんど停止状態となって、昭和を迎えた。