水平運動と大阪府公道会

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水平運動が活発だったのは創立後ほんの数年間だけだった。大正一五年(一九二六)一月一〇日、豊中水平社の今西弥之助と本部で出会った北井正一は、「大阪府水平社もなんとかしよう」と言い交わしている(今西弥之助『苦闘する人間像―水平社同人の日記』)。前年四月に治安維持法が施行され水平運動はかなりの制約を受けるようになっていた。水平社内部では運動方針を巡ってアナ派(アナーキズム派、無政府主義)とボル派(ボルシェビキ派、共産主義)との対立が表面化していた。昭和二年(一九二七)一月、全国水平社(全水)初代委員長の南梅吉らが日本水平社を新たに結成し、全水とは一線を画した。全水本部や大阪府水平社本部はボル派が主導権を握っており、新堂水平社はアナ派の拠点であった。新堂には山岡喜一郎・大串孝之助らアナーキストが多く移り住み、機関紙『祖国と自由』(La patrie et la liberte)を発行し、大正一四年九月一六日には、特別号として「大杉栄追悼号」を出した。昭和二年七月、山岡らは大阪府水平社解放聯盟を結成した。

写真109 『祖国と自由』大杉栄追悼号(大阪府立中央図書館所蔵)

 昭和三年三月一五日、日本共産党員一斉検挙によって共産党員の多かった大阪府水平社はもとより各地の全水活動家が検挙され、水平運動はますます創立当時の勢いを失っていった。

 一方、同年二月二九日、大阪府知事を会長とする大阪府公道会が創立され、四月二日に発足式が行われた。事務所を大阪府庁舎内に置き、府内各地に支部をつくることをめざした。もともと融和団体としては、同愛会・帝国公道会などがあったが、昭和二年七月、内務省社会局内の中央融和事業協会に吸収合併し、水平運動への対抗的性格を強めていた。大阪府公道会はその傘下に誕生したものである。

 機関誌『融和時報』二四号(昭和3・11・1)は、「水平運動の存亡如何」の見出しで、「水平運動が四分五裂の有様で、水平社の存在さへ疑はれるやうになつて来たので、之が対策としての融和運動も張合抜がした感」がすると論じている。翌四年一二月一日の『融和時報』近畿版では、「水平運動の消長が、直(ただ)ちに融和運動に影響する現在に於(おい)ては、融和運動の側から言つても、寧(むし)ろ自分自身の問題として、真剣に考へなければならない問題であらふと思ふ」「部落解放運動の前衛としての水平運動の正しき価値を認識し、その健全なる発展を希ふこそ、真に部落解放を希念する者の採るべき態度では有まいか」と述べている。これは積極的に水平運動の長所を取り入れようとする姿勢であり、公道会主催の事業に、水平運動家の参加を呼びかけるようになったのである。

 昭和六年一二月一〇日に奈良県桜井町(現桜井市)で開催された第一〇回全国水平社大会で、北井正一が大阪の現状を「六〇部落の内二五、六の支部を持っていたが現在は一一支部になった」と述べている。昭和初期の経済不況による部落の疲弊と、思想弾圧や融和運動からの誘いとが招いた結果であろう。