北井正一は明治三二年(一八九九)三月五日、南河内郡新堂村の製材業を営む家に四男四女の三男として生まれた。長男・次男・四男ともに幼くして亡くなったので、あと取り息子として育った。大正一一年(一九二二)三月三日、桜井徳光・中島範次らと共に京都市の岡崎公会堂で開催された水平社創立大会に参加し、同年七月一四日に創立された河内水平社(のち新堂水平社)の初代委員長となった。同時に、大阪府水平社の執行委員もつとめ、大阪府水平社の機関紙『水平線』を編集発行し、大阪西浜水平社幹部の栗須七郎の個人新聞『大阪水平新聞』の発行人は北井であった。毎月のように社会問題講習会を開き、自宅敷地を開放しての映画上映や新民衆劇上演の誘致に奔走するなど、部落住民の啓発と娯楽に力を入れた。また、大正一四年三月三日に開催された第四回大阪府水平社大会では、北井が開会の辞を述べ、議長に選出されるなど、新堂村だけでなく大阪府における水平運動の中心的存在であった。
大正一五年八月八日には、「府下水平社の統一並びに組織化と今後の運動方針について協議し次いで役員選挙」が行われ、その結果、代表委員会議長に宇野熊哉、理事に山田竜平と山岡喜一郎、関西聯合会委員に北井正一・大西遼太郎・今西弥之助が選ばれた(『水平新聞』大正15・9・1)。しかし、在郷軍人会川上村分会の差別発言に対する糺弾闘争が一件落着したのちの八月一七日、飲食店での言動が「業務妨害」に当たるということで山岡らと共に北井も逮捕され、懲役六月の実刑判決が確定。大正から昭和への変わり目を刑務所で過ごした。
昭和三年(一九二八)、北井は、父の死によって家督を相続し戸主となってまもなく、家財を売却して母と共に大阪市浪速区西浜へ転居した。松田喜一・木村京太郎・中村甚哉・西光万吉ら日本共産党員であった全国水平社本部(浪速区栄町)の幹部らが検挙されたので、手薄となった水平社本部を支える役割が北井にはあった。北井が代表をつとめていた新堂水平社は、山岡喜一郎・大串孝之助らアナ派の拠点であったが、彼が思想的に最も影響を受けたのは栗須七郎であった。栗須は和歌山県内の部落出身であるが、全国水平社創立後、西浜に移り住んだ。親鸞の教えをもとに人間の平等を説く宗教家的雰囲気を持った人物であった。彼の思想は、精神主義的かつ個人主義的で非組織的なものであったが、水平運動が労働運動や農民運動・無産政党運動とも連携する必要があるという点でボル派と共通しており、ボル派が主流の大阪府水平社と栗須は協調して活動していた。
新堂村を出てからの北井は、大阪府水平社幹部として差別糺弾闘争を指導し、しかも関西労働組合総聯盟大阪皮革労働組合長として各地での労働争議を指導し、東奔西走するようになった。
昭和七年発行の『大阪府下ニ於ケル水平団体ニ関スル件』(財団法人協調会大阪支所)によると、北井は全国水平社大阪府聯合会(全水府聯、府聯)西浜支部の執行委員であり、この時の新堂水平社幹部は、山岡喜一郎・中島範次・松谷功であった。昭和八年八月二八日、高松差別裁判の取り消しを求めて差別裁判糺弾闘争全国部落代表者会議が開催され、一〇月一日、福岡を皮切りに、各地から部落代表が合流し、東京をめざした。この時北井は副団長として大阪から合流した(団長は米田富)。九年ごろは全水府聯の常任委員をつとめ、教育出版部長でもあった。当時の府聯委員長は松田喜一、常任委員に北野実がいた。一〇年六月三〇日に全国水平社大阪西成支部の結成大会が西成区内で開かれたが、最初の準備会を西成区中開町の北井宅で持ち、支部発足と同時に西成支部委員となった。
このように大阪府の水平運動において常に中心的役割を担いつつ、西浜を拠点とする大阪皮革労働組合の組合長として、昭和八年三月と八月の二度にわたって浪速区栄町の中塩製靴工場に対する待遇改善や解雇取消争議を指導し、三島郡茨木町(現茨木市)の平尾帯革工場争議、中河内郡布施町(現東大阪市)の東洋ミシン商会争議、大阪市大正区の武藤電気製鋼所争議や、各工場における労働組合の組織化などを指導した(大串夏身「全水大阪と労働運動―関西労働組合総連盟の歴史から―」『部落開放研究』二八)。これらの争議に先だつ昭和六年五月二〇日、和歌山県西牟婁(むろ)郡田辺町における第二次田辺貝釦(ぼたん)争議が解決した直後に開催された水平運動大演説会で、北井は、栗須七郎・栗須喜一郎・有本敏和らと共に熱弁をふるった。
北井は大阪市内で住居を転々としながら、常に居住地の水平社支部委員をつとめ、自宅は支部事務所を兼ねていた。昭和八年ごろは浪速区西浜中通に居住し、自宅は、大阪皮革労働組合本部と全国水平社大阪府聯合会事務所・高松差別裁判糺弾闘争大阪地方委員会事務所をも兼ねるという具合であった。一一年ごろは北区舟場(ふなば)町に居住し、全水梅田支部の一員となり、同年一一月八日に行われた全水北大阪地区協議会の結成大会では議長をつとめ、協議会事務局は北井宅に置かれた。
新堂村を出た後に結婚し、一男二女をもうけたが、水平運動や労働運動に専従し、定職に就いていない。水平運動家にとって活動資金のやりくりが非常に大変であったことは、前述の今西弥之助の日記でも随所に垣間見ることができる。種々の機関紙の発行が継続しないのは購読料をきちんと徴収できないからであり、結局は編集発行人が自腹で運営するしかなく、資金繰りに困って廃刊や休刊に追い込まれるのが常であった。今西は靴修理業が本業であり、不景気や本人の病気などから仕事がうまくいかず妻子を抱えて生活に難儀している。北井の場合、水平社や労働組合の活動の合間に行商しているものの、今西以上に生活は厳しかった。労働者たちが北井の生活を支援していたともいわれるが、労働者自身がきわめて貧しい時代であった。
北井正一は常に大阪の水平運動の中心にいた。やがて、日本が大陸侵略に突入していく中で、松田喜一・栗須喜一郎・泉野利喜蔵・桜井徳光ら多くの水平運動家が地元の有力者として融和運動に活路を見いだしていった一方で、彼はあくまで水平運動の一活動家としてとどまり、昭和一三年一一月九日、三六歳で亡くなった。葬儀は全国同人葬として行われ、弔辞は松田喜一が読み上げた。