大阪府公道会は各支部を通じて、種々の事業を行い、地区の各層、各世代に参加を呼びかけ、活動を浸透させていった。公道会南河内郡支部の設置は昭和四年(一九二九)一一月、支部事務局を元南河内郡役所内(富田林町)に置き、千早村長の杉田密治が代表となった。公道会南河内郡支部主催で産業経済更生衛生改善のための管外市町村視察が昭和五年から毎年実施され、新堂村長・彼方(おちかた)村長などと共に円光寺住職樹林恵教や、和田義一・武田仁三郎など部落の有力者が積極的に参加し、和田は大阪府公道会理事をつとめていた。
融和問題の講演会や映画講演会、婦人講演会などが南河内郡内の各町村で重点的に行われた。子弟の育英にも積極的に取り組み、新堂村ではほぼ毎年二人が、「高等小学校及び実業補修学校等に在学し成績優秀品行方正なる者」として大阪府公道会育英奨励金を受けていた。また、中堅指導者育成のための融和事業青年講習会が南河内郡支部でも昭和七年一〇月一六日・一七日の両日開催され、新堂村からは公道会理事の和田と共に桜井徳光ら六人の青年たちが参加。桜井は新堂水平社の一員でもあったが、こののち九年に新堂村助役(名誉職)となって活動していくことになる。
公道会主催事業への水平活動家の参加は郡部にとどまらない。昭和一一年四月の大阪府公道会浪速区支部総会に、水平社の松田喜一と栗須喜一郎が出席し、祝辞を述べている。
昭和一二年、日中戦争の勃発とともに、「挙国一致 尽忠報国 堅忍持久」のスローガンのもと国民精神総動員の体制が整えられ、翌一三年五月五日に国家総動員法が施行され、大阪府公道会でも、「四百万府市民総動員の鉄の如き精神結束運動」に乗り出し、「融和の完成を目指し、以て尽忠報国の誠を致さむ」と、青年融和事業一夜講習会や婦人一夜講習会を持った。このような情勢のもと、水平社は、部落差別をなくすことは「挙国一致」に通じるとして、反戦・反ファシズムを放棄し、戦争政策に協力していった。南河内郡支部でも皇軍の武運長久を祈願する青年一夜講習会や婦人一夜講習会を主催した。
昭和一三年三月、融和事業に尽力した桜井徳光に対して、大阪府公道会長より感謝状が授与された。新堂水平社はすでに八年ごろに自然消滅していた。
昭和一六年六月二五日、中央融和事業協会は同和奉公会に改組され、各府県融和団体はその府県本部として統合されることになった。大阪府公道会は、七月二二日をもって、同和奉公会大阪府本部となり、栗須喜一郎・泉野利喜蔵・松田喜一らと共に桜井徳光も役員に就任した。同年一二月八日、太平洋戦争が始まった。一二月二一日、言論出版集会結社等臨時取締法が施行され、全国水平社に対して存続不可の方針をとった。全国水平社は解散届を出さないという方法でこれに対処し、翌一七年一月二〇日、全国水平社は法的に消滅した。同和奉公会だけが同和事業団体として終戦後の二一年三月まで残った。
なお、『大阪府下ニ於ケル水平団体ニ関スル件』(昭和七年発行)に「反水平団体」として、新堂村南新堂の青年協心会の名がある。大正二年(一九一三)につくられたいわゆる官製の融和団体であり、その後、向上会や新堂水平社の誕生によって衰微していたが、右記調べによると、昭和六年現在、会員数は新堂水平社三〇人に対して青年協心会一〇〇人となっている。会長の西口佐三は同志戸主会の会長でもあり、公道会南河内郡支部と協力して地域改善に取り組んでいた。たとえば昭和五年ごろに同志戸主会が取り組んだ二階建て一二戸の住宅建設がそうである。