啓明協会

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昭和八年(一九三三)二月、大鉄電車内で富田林町会議員が町村合併のことにふれ、部落のせいで合併話がなかなか進まない旨の発言をした。合併とは、当時の富田林町と、新堂村・喜志村・大伴村・川西村・彼方村との町村合併のことである。たまたま同じ電車に乗り合わせていた部落の人が、これを差別発言として糺弾した。

 同年二月一八日、富田林町の一部町会議員と新堂村との間に和解が成立し、啓蒙機関の設置と差別をなくすための講演会の開催を盛り込んだ覚書を交換した。これに基づいて、二月二三日の夜、富田林町青年会館で、新堂村・富田林町双方から委員を出して啓蒙機関設立の準備委員会を開催した。委員は、武田良海・岡村弘三・大谷徳松・板持常吉・半田誠二・坂元巌・竹田哲哉(竹田三二の別称)・桜井徳光・太田友晴・山岡喜一郎・大串孝(孝之助)・松谷功の一二人であった。綱領と規約の起草委員を選定し、会の名称を「啓明(けいめい)協会」と決め、仮事務所を板持常吉宅に置いた。啓明とは明けの明星、金星のことである。三月七日、富田林町常盤座において啓明協会創立発会式記念講演会を開催し、一同記念撮影と天皇皇后両陛下万歳を三唱して閉会した。

 会報『啓明』が松谷功を発行人、大串孝を編集人として発行された。創刊号(昭和8・5・1)に「愚感」と題した一文がある。この中で、「現今の世局を見るに、我が日本は聯盟脱退により世界に孤立し、政治的経済的凡ゆる方面に於て非常時日本である。吾等、この世相を見究(きわ)め、大和民族は結束し強力で最悪に処さねばならぬ、均(ひと)しく陛下の赤子(せきし)である。同じき義務を遵守(じゅんしゅ)し、均しき御恵の下に御奉公申上げるのが我等国民の勤めである。『一君の下万民平等一視同仁かゝる基本的精神の下に』本協会の責務たりや又大である。明治大帝の詔勅の主旨を奉戴(ほうたい)し、旧来の陋習(ろうしゅう)を打破し、人類相愛全き解放の不合理無き安住の理想郷の創造を期して、勇往邁進(ゆうおうまいしん)せねばならぬ。これ本啓明協会創立の意気である。非常時日本に処する吾等の覚悟であらねばならぬ」と主張している。

写真113 『啓明』創刊号

 大串や松谷・山岡らは水平運動のアナ派の拠点といわれた新堂水平社を支え、大杉栄を讃えて『祖国と自由』や『民衆の中へ』などを発刊した人物である。しかし、『啓明』の記事にはもはや、その姿勢はない。啓明協会は、一君万民の立場に立った講演会を開き、トラホーム根絶のための無料診療所を同年五月に開設するなどの活動を行った。無料診療所は約二年半続いた。新堂水平社同人は、公道会南河内郡支部・啓明協会など行政主導の融和団体や啓蒙団体の活動に積極的にかかわっていった。