新堂村大字南(通称南新堂)は農村地域に存在しながら耕作農地は零細であった。時代はややさかのぼるが、大正七年(一九一八)刊行の『部落台帳』によると、南新堂は総戸数二四六戸(大正六年)。これを職業別にみると、農業がもっとも多く六二、次いで下駄靴直し三七、荷車輓(ひき)営業一七、菓子商一七、牛肉販売一五、下駄製造販売一三、桐商一三、竹皮商一一、日稼一〇などである。○○商と称していてもその実態はほんの日銭稼ぎにすぎない。中河内郡布忍(ぬのせ)村(現松原市)や南河内郡埴生(はにゅう)村(現羽曳野市)の屠(と)場運営のような代表的な部落産業があるわけでもなく、昭和初期も、靴や下駄・雪駄の修理、行商、日雇いなど雑業で生活していた。
その南新堂にも、農事実行組合があった。組合の設立年は不明であるが、昭和四年(一九二九)一二月を開始月とする新堂村南部農事実行組合「壱銭貯金通」や昭和四年一二月二四日から五年八月三〇日の日付で新堂村南部農事実行組合発行の出資金領収証が残っている。大阪府公道会南河内郡支部の設立が昭和四年一一月、農林省の農村経済更生運動が始まったのは昭和七年であるから、農事組合設立の準備段階だったのかもしれない。出資金は一戸一〇円としたが、最初から一〇円を出資するのは住民にとって非常な負担であるので、「壱銭貯金通」をつくった(昭和六年当時、日雇い賃金が一日当たり一円~一円三〇銭くらいであった)。一〇円たまると組合設立資金として出資し、引き換えに「出資証券」を受け取り、組合員となった。組合員は、共同購入の精米機や麦搗(つ)き機・籾(もみ)すり機などが使用できた。
部落の東端に、農事実行組合所有の作業所や事務所・倉庫などがあり、敷地は桜井徳光が提供していた。組合では、これらの建物を抵当に、昭和九年五月三一日、総額約四〇〇〇円の生業資金貸借契約書を新堂村長と交わしている。戦後、この地に市立保育所を建設する際に、土地は「新堂村」の財産であり、町村合併を経て「富田林市」が引き継いだものであると市当局が主張したので、部落の人々は驚いた。組合の共有財産と考えていた土地は、昭和一一年に桜井徳光から「新堂村」へ移転登記がなされていた。部落の人々は「その時代は地主と小作関係の時代であり、地主は桜井さんだったが、小作にも権利がある」と主張し、組合員らで二分の一の土地所有権を得たうえで、保育所建設用地として市へ売却した、という経緯がある。
農地改革後の昭和二六年八月に再調製された「組合員耕作段別台帳」でみると、組合員三六戸のうち三分の一が一反から二反、平均は約二反七畝である。農業で生活するには最低五反(五〇アール)必要という。戦前にこれより多くを耕作していたとは考えられない。組合の経理は武田仁三郎や桜井らが担当し、住民の生活援助の一環として、組合では生活必需品の販売もしていた。しかし、現金払いよりも貸し付けによる購入が多く、売掛金の回収がなかなかできず、売店経営は赤字で取り止めとなった。そのような部落の実態であったので、新堂村南部農事実行組合が大きな成果を上げることは困難であった。戦況が厳しくなって住民の生活はますます逼迫(ひっぱく)し、毛皮加工品などの軍需用品製造に活路を見いだしていった。