昭和一三年(一九三八)七月一日の『大阪朝日新聞』の一面トップの大見出しは「皮革非常管理けふ実施 民需全般に禁止的制限 商工省から三省令公布」であった。皮革使用制限規則・皮革製品販売価格取締規則を七月一日公布、即日実施、皮革配給統制規則を同日公布、八月一日施行するというものであった。これにより軍需品以外への皮革の使用が禁止されることになった。
七月二一日、大阪府水平社の松田喜一は浪速区栄町の靴修理業者による経済更生会を設立した。皮革全面統制による靴修理用皮革の入手難に対応した動きであった。すでに前年一一月に、全国水平社大阪府聯合会書記長北野実らは旭区生江(いくえ)に経済更生会を設立していた。
このような大阪市内の活動とほぼ同時期に、南河内郡新堂村でも元新堂水平社同人の桜井徳光を指導者とする河南殖産更生組合が活発に動いていた。桜井は大阪市浪速区での水平社の活動をやめて新堂村に戻り、昭和九年七月一日付で新堂村助役(名誉職)として庶務全般を担当し、公道会南河内郡支部が昭和五年から毎年行っていた先進融和事業地の視察にもしばしば参加していた。当時、新堂村には有給助役が一人、名誉助役が二人いた。
昭和一二年一月二七日、公道会南河内郡支部主催の経済更生懇談会を新堂村で開き、大阪府庁から講師を招いて積極的に地区産業の振興を模索していた。同年一二月一日、桜井を組合長とする河南殖産更生組合が誕生した。『融和時報』一三四号(昭和13・1・1)大阪公道会版に「適当なる副業を得て 勇躍経済更生に邁進する 府下南河内郡新堂村」の見出しが大きく出ている。それによると、桜井と竹田三二が軍需品加工(毛皮防寒具加工)に着目し、大阪府に相談したところ、非常に有望な副業だということで大阪府が軍部に交渉し、新堂村を公式に大阪府の指定村として軍の快諾を得たという。その後の新堂村の状況は、『融和時報』大阪公道会版が、「新春と共に事業益々進展 喜色漲(きしょくみなぎ)る新堂村」(昭和13・2・1)、「経済更生の兆(きざし) 益々燃ゆる 河南新堂村」(同5・1)など頻繁に紹介している。
もともと、部落経済更生運動の担い手は融和団体であり、大阪では全府的規模の融和団体として昭和三年二月に設立された大阪府公道会があった。だが、大阪府公道会は行政主導でつくられた団体だったので各支部の代表は市区町村長や地区の有力者であり、部落の住民自身が自覚して活動しているわけではなかった。一方、日中全面戦争開始の情勢下、水平運動家たちは居住部落における旧来の活動が不可能となっていた。そこで、部落経済更生運動に活路を見いだそうとした北野実らは経済更生会を組織した。そこへ、水平運動家としての輝かしい経歴と抜群の指導的手腕を持つ松田喜一が乗り出してきたのであった。それは公道会活動の弱点を補ったかたちとなった。
府・市の行政当局と大阪府公道会は、松田喜一・北野実・桜井らの活発な経済更生会活動に触発されたかたちで、昭和一三年一〇月、地区産業の全面的打開をめざして大阪府協同経済更生聯合会を発足させ、同年一〇月六日に創立総会を催した。理事には、融和運動家だけでなく、松田をはじめ堺市の泉野三男三ら全水関係者と共に桜井も名を連ねた。