戦時統制下において地区の生活改善や産業開発を推進するためには、軍関係の物資を生産することが確実な手段である。大阪府協同経済更生聯合会の昭和一三年度授産事業概要に、「調査研究部として、皮革、毛皮、刷子、履物、副業、職業補導の六部、職業講習会は、胸章、襟章、縫成、軍靴、カールバック(木玉のハンドバッグ)の講習会、職業補導は、陸軍代用編上靴、海軍軍靴、襟章、胸章等の軍需品並びにカールバック等の下請けを斡旋し加盟団体にこれを分賦し作業せしめたり」とある。皮革専門部委員には浪速区栗須喜一郎、新堂村和藤平太郎らが名を連ね、毛皮専門部委員に新堂村の竹田三二がいた。
桜井と竹田が府に相談して獲得した軍需品加工(毛皮防寒具加工)の副業は、初心者でも一日五〇~六〇銭、熟練者には一円以上のまとまった工賃を部落の女性たちにもたらした。受注が多く非常に繁栄し、半年後には一〇〇人余りの従業員が入れる二階建て工場の建設が計画され(『融和時報』大阪公道会版、昭和13・7・1)、近隣の南河内郡埴生村や道明寺村(現藤井寺市)をはじめ、堺市耳原、布施市長瀬(現東大阪市)、大阪市旭区生江などにも仕事を回していたという(同13・2・1)。埴生村の経済更生会は昭和一四年(一九三九)に和島岩吉・萬田卓三らによって組織されたが、ここでも、「産業運動としては授産講習の開催、視察見学等に依(よ)り現今ミシン作業、襟章、胸章の縫成、模造真珠の玉巻等を大々的に初めつつあり、今後も各種手工業をどし/\採り入れて婦女子にして無為徒食するもの一人としてなからしむべく」(同14・3・1)というように、新堂村同様に婦女子の仕事獲得に積極的に動いていた。
昭和一五年八月一日の『融和時報』近畿各地版によると、七月一三日、協同経済更生聯合会主催の大阪府生活刷新運動協議会が知事官舎別館で開かれ、席上、桜井は更生会活動における婦人指導の重要性を強調して報告している。現在、富田林市立人権文化センターには縦八五センチ横一一〇センチの大きな日の丸の寄せ書きが保管されている。「陸軍被服廠新堂村加工班」の文字の下に桜井徳光と竹田哲哉(竹田三二の別称)が署名し、日の丸の周囲には加工に携わっていた七〇余人の女性たちと男性数人の名前があり、さらに近隣支部名と代表者とおぼしき人物の署名が並んでいる。この日の丸がいつごろ、何のために作られたのかは、所有者も署名に名前を連ねている女性たちも記憶していない。
毛皮防寒具加工は主として部落婦女子の仕事であり、男たちは軍靴製造に励んでいた。昭和一四年一月三〇・三一両日、大阪市製靴履物厚生同業組合浪速区共同作業場において、大阪府協同経済更生聯合会が受注した代用編上靴の製作講習会が開催され、浪速・生江・新堂の三作業場から合計二七人が参加した。そして、二月二日から三作業場で「勤労報国銃後を護れ」の垂れ幕を掲げて、浪速区作業場に四〇余人、生江作業場に二〇余人、新堂作業場では四〇余人が作業を開始した。この三作業場での軍靴製造については「靴工業組合との間に種々の風評立ち、職工間に動揺の兆」があった。「各作業場組合の各工場は尚相当数の収容力を有するに依り、郡部の失職靴職工さんは何卒就労下さる様御勧め致します。交通費等就職支度金は市町村を経て申し込まるれば支給致します。」と相互協力を約束し、失業製靴職人へも就業を呼びかけた(『融和時報』大阪公道会版、昭和14・3・1)。