融和事業から同和事業へ

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米騒動に部落がかかわっていたことをきわめて重くみた政府は、大正八年(一九一九)一月、「細民部落改善協議会」を開催し、「部落民と部落外の者との、徹底融和を図る方法」などを協議した。解決の急を要する重要課題として、原敬内閣は大正九年度予算に部落改善費五万円を計上、九年八月、内務省に社会局を新設し、部落に対する取り組みを示した。

 大正一一年三月の水平社創立は、政府の部落改善事業政策を大きく変化させた。「十二年度に於ては更に積極的施設を為し事業名をも地方改善事業と改称した。此従来部落改善事業と称せし事業名を地方改善と改称せし所以のものは、唯単なる名義の改称にあらずして、事業の方針、事業の実質の上に一大進展をなした為めである」(『融和事業年鑑』昭和七年版)。すなわち、改善は部落だけでなく、地方における「差別的偏見」「伝統的偏見」を改善することを基調とした地方改善事業である、という。さらに大正一四年ごろから融和事業と称するようになった。

 事業名の改称にともなって、「同胞相愛観念」の普及宣伝・融和機関の設置・育英事業などを積極的に行い、予算も大正一二年度は前年度の二倍以上に増え、以後、昭和五年(一九三〇)の経済恐慌までは年間五三~六五万円であった。これらの国庫補助金が直接・間接に各府県段階で地方改善事業に投入されることになった。

 新堂村における部落改善事業のすべてを明らかにするのは困難であるが、初期のころの事業に、「共同浴場建設」がある。大正一一年五月一五日ごろに落成式挙行の運び、というものである(『大阪時事新報』大正11・5・3)。昭和三年度には道路改修が行われた。融和事業には「直営事業」と「補助事業」とがあり、市町村で実施されるのは主として「補助事業」であった。

 まず、公道会南河内郡支部創立の昭和四年度融和事業「簡易上水道施設」に七二五〇円、昭和五年度施行事業の「青年会館建設」に二六〇〇円、昭和六年度施行事業の「住宅建設」に五四六〇円がそれぞれ補助された。いずれも予算総額のほぼ半分である。

 『融和事業年鑑』(昭和七年版)によると、大阪府公道会の支部数は一二、南河内郡支部はそのうちの一つである。この年の南河内郡支部活動予算は五二六円、施行事業数一七件であった。補助事業の「住宅建設」は、新堂村に建設予定の二階建て一二戸の予算総額一万〇九二〇円のうち半額を補助するというものである。これに関連して、当時、部落には同志戸主会という組織があり、その融資によって昭和五、六年ごろに二階建て長屋式コの字型住宅を建設したといわれており、住宅跡地に昭和四三年五月建立の「同志戸主会之碑」がある。おそらく建設予算の残りを同志戸主会が調達したものと思われる。

写真117 同志戸主会の記念碑

 昭和一〇年度は、新堂村に作業場拡張のため、予算総額三九〇七円のうち国庫と大阪府とからそれぞれ九七五円の補助があった。農事実行組合が生業資金として、昭和九年五月に新堂村長から借りた約四〇〇〇円が、この予算である。

 南河内郡支部では、補助事業だけでなく、地域にかかわる種々の支部活動を行っていた。たとえば、昭和一一年度の「融和事業日誌」(『融和事業年鑑』昭和一二年度版)に、五月一〇日、「大阪府新堂村記念社主催先覚者泉原、竹田両翁追弔式典挙行」とあるが、これは円光寺内に建つ泉原八三郎・竹田仁平治両氏を讃える頌徳碑(しょうとくひ)(明治二〇年五月建立)の建設五〇周年記念式典のことである。

写真118 円光寺内の頌徳碑

 泉原八三郎は明治一四年(一八八一)三月、選挙によって新堂村戸長に選ばれたが、戸数の過半を占める本郷(通称北新堂)から就任に異議が出て、富田林村戸長の杉本藤平や南河内郡長などが調停に乗り出し、戸長をつとめたという経緯がある。頌徳碑は、泉原が「人、生まれながら初めより貴賤あるに非ず」といって、竹田と共に部落の生活を改善することに日夜励んだことが記されている。その両人を融和問題の先覚者として讃える式典が、円光寺で行われた。

 円光寺ではこのほか、戦死者の追悼会・映画講演会など種々の催しが南河内郡支部の主催で行われた。住職の樹林恵教は農繁期の託児所を開き、樹林順行は、桜井徳光の後任として新堂村名誉助役職に就き、南河内郡支部主催の児童融和教育視察・融和事業指導者講習会への参加や、昭和一八年一〇月五・六両日に奈良県生駒郡の信貴(しぎ)山で開催された厚生道場の指導員練成講習会に桜井と共に参加するなど積極的に融和事業(同和奉公会と改組後は同和事業と改称)にかかわった。彼は、大正八年に「人間としての解放」をめざして向上会を設立した人物である。

 同年一一月一二日、円光寺に富田林厚生道場が開設されたが、これは府内一〇か所に開設されたうちの一つである。これら各道場の修練生で「厚生団」を結成し、「戦力増強の国策に即応する挺身隊として各々の地方の青少年壮年の殉国精神を昂揚(こうよう)し、国家の要請に挺身せしむべく、陣頭指揮に当たる」というものである(『同和国民運動』大阪府版、昭和19・1・1)。こうして育成された指導者によって、「指導地区の潜在婦人労力を戦力増強に働かすため」、新堂村に河南殖産更生組合の三作業所を、埴生村に勤労作業所を設置し、多大な効果を収めたという(『同和国民運動』昭和19・10・1)。

 また、部落で重点的に行われた融和事業に、トラホーム治療がある。新堂村では昭和八年ごろに啓明協会の事業としてトラホーム治療が実施されたが、約二年半で医師不足などから中止していた。大阪府公道会が同和奉公会大阪府本部と改組された昭和一六年度の重点事業の一つは、トラホーム集団治療特別指定市町村の設定であった。堺市・新堂村・埴生村など八市町村に助成金が交付された。トラホーム根絶は、「決戦態勢下戦力の増強を図る為」として、翌昭和一七年度は指定町村が増え、富田林町も指定地域となった。

 同和奉公会に改組後は、指導者の育成や婦人講習会・同和促進指導員部会・同和教育講座・同和教育研究指定校の設定など、「決戦態勢」に対応して「銃後社会」を支える活動が頻繁になされた。