昭和一六年(一九四一)七月二二日、大阪府公道会緊急理事会において、同和奉公会大阪府本部として改組することが決定した。大阪靴更生組合勤労報国隊の隊長に就任した桜井徳光(同和奉公会府本部理事)は、一七年一二月二・三両日開催の同和奉公会第二回中央協議会で「部落産業再編成に関する件」を報告したが、その中で、逆転業者防止と地区内雑業の整備、重要産業方面への進出指導、全国的修理業者の組合の公認と資材配給の再検討を要望した(同和奉公会『第二回中央協議会会議録』)。
日本靴修理業組合聯合会の定款には、大東亜共栄圏確立の国策たる労務動員計画への積極的協力、職能による国家資源愛護の実践強化、靴修理業への新規加入の防止、経済的厚生による同和事業への協力が明記された。逆転業とは、皮革統制により失業した製靴職人が靴修理業へ転職することをいう。そのため、本来の靴修理業者たちが仕事を失う事態が生じていた。
昭和一八年三月二三日、大阪市中之島公会堂で同和奉公会大阪市支会第二回協議会が開催され、住吉区経済更生会会長沢田彦太郎が「満四十五歳未満の健康者を順次重工業方面に転業せしめること」を提案した。戦局の拡大は、靴更生組合の活動目標の重点を、逆転業防止から青壮年の軍需工場への転職促進へと移行させた。同和事業関係者も進んで戦力増強に挺身するため、同年九月九日には「時局対策臨時委員会」の第一回委員会が大阪軍人会館で開かれた。委員会には、栗須喜一郎・泉野利喜蔵・桜井徳光・和島岩吉らが出席し、地区産業の今後のありようを研究協議した。
戦争による経済統制の強化は、部落産業にも大きな打撃を与えた。靴修理業もその例外ではなかった。大阪靴更生組合は、皮革統制により資材が入手困難となった靴修理業者の営業用資材確保と生活擁護を目的として設立され、さらに全国的組織の結成に大きな役割を果たした。しかし、戦局の深刻化は、勤労報国隊の結成や企業整備への協力などにみられるように、労働統制を担うという戦争遂行協力機関としての性格を強めたのであった。