桜井徳光

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昭和一二年(一九三七)九月一一日に開催された全国水平社拡大中央委員会において、「非常時における全国水平運動」を採択し、戦争協力の立場を表明した。「ことここに至った以上は国民としての非常時局に対する認識を正当に把握し、挙国一致に積極的に参加せねばならぬ」「挙国一致には、もとより国内相剋の原因となるが如き身分的賤視差別が存続してはならぬ筈である」として、挙国一致の国策に沿って差別の解消を図ろうとしたのであった。戦争の激化とともに部落の人々の暮らしがますます追い詰められ貧しくなっていく状況を背景に、部落の暮らしを擁護しようというのが、松田喜一や北野実をはじめとする多くの水平運動家たちの方針であった。

 新堂村でこの活動の中心となったのが、桜井徳光(明治三七年一二月一三日生まれ)である。早くに父を亡くし、祖父徳五郎が父親がわりであった。大正九年(一九二〇)三月に富田林高等小学校を卒業し、地区では数少ない自作農家の戸主として、農業を営んでいた。

 大正一一年三月三日の水平社創立大会に、満一七歳の桜井も北井正一らと共に参加し、同年七月一四日の河内水平社(のち新堂水平社)設立と同時に幹部として活動を始めた。大正一三年一〇月一日の水平社常任専門部委員選定で宣伝部委員となった桜井は、「各水平社は、毎月一回以上、講習会、講演会或いは座談会等の催しをして同人の教化に務められたし」という水平社の教化方針に沿って、さっそく同年一〇月四日に「社会問題講習会」を自宅で開いた(『水平線』大正13・11・21)。以後、毎月第一土曜日が講習会となった。大正一五年の夏、在郷軍人会川上村分会差別事件が起き、北井をはじめとする新堂水平社の幹部や同人ら二十数人が逮捕され、新堂水平社は壊滅状態に近いものとなったが、この時桜井は輜重兵(しちょうへい)四大隊に入営中であった。

 昭和三年に北井がアナ派(無政府主義)から離れて大阪市浪速区西浜へ移り住み、醤油や薪炭など生活用品の行商をしながら全水府聯西浜支部の活動をするようになると、桜井も六年に西浜に隣接する大阪市浪速区鴎町四丁目に移り住み、酒醤油業を営んだ。北井のように財産を処分して新堂村を出て行ったのではないが、鴎町四丁目には木津水平社があり、北井も近くにおり、桜井自身も水平社の活動を続けていた。

 しかし、一方で、昭和七年一〇月一六・一七日の両日に開催された大阪府公道会主催の「融和事業青年講習会修了者」に桜井は名前を連ねていた(『融和時報』近畿各地版、昭和7・11・1)。この講習会に新堂村からは公道会理事の和田義一と共に松谷功・坂本巌・北井喜三雄・高田隆一も参加しているが、和田以外は新堂水平社の活動を担ってきた人々である。昭和八年六月から翌年四月にかけて、出獄したばかりの松田喜一の指導下、全国水平社は高松地裁差別裁判糺弾闘争を全部落民的な闘争に盛り上げて勝利するなど、水平運動はまだまだ融和団体の活動とは一線を画していた。そういう時期に、桜井たちは新堂水平社員でありつつ、公道会の講習も受けていた。松田喜一・北原泰作・朝田善之助といった水平運動家たちが行政と結びついていくのは、まだ先のこと、昭和一二年ごろである。

 昭和八年五月、行政主導の啓蒙団体「啓明協会」が設立された。桜井はその設立準備段階から、新堂水平社同人の山岡喜一郎や大串孝・松谷らと共に加わっていた。やがて、浪速区での酒醤油業を廃業し新堂村に戻った桜井は、昭和九年七月一日付で、南河内郡新堂村助役(名誉職)となり、庶務事務を担当した。その後の桜井は地区の有力者・指導者として、北井とは異なる歩みをとることになった。

 昭和一二年一一月三〇日、助役職を辞し、一二月一日、河南殖産更生組合の組合長になった。同じころ、大阪市旭区や北区で、水平社幹部の松田喜一や北野実らが中心となって「経済更生会」を設立し、行政から資金協力を得て、戦時経済統制のもとで圧迫されつつあった部落住民の生活を擁護する運動を始めた。一三年一〇月には、府内各地の経済更生運動を統合するため、大阪府が主導権をとって大阪府協同経済更生聯合会が結成された。経済更生運動の中にいた水平運動の活動家はおのずと行政や融和運動との接触を強めていったため、徐々に行政組織に入ったり、融和運動を担うようになっていった。桜井はまさにそういった人々の先駆けであった。

 昭和一四年二月、桜井は「中堅人物に対する研究助成金交付」の対象者に選ばれた。中央融和事業協会の機関紙『更生』二七号(昭和14・6・28)に「栄えある若き開拓者」として、次のように紹介されている。

南河内郡新堂村 桜井徳光君(満三十五歳)

新堂地区は、戸数二百七十六、人口一千二百四十を擁する大地区であるが、その大部分は従来履物製造業や修繕をして生計を営んで来た。その生活水準は、中位のものわづかに九戸を残した以外は生活が困窮してゐる状態であり従来は郡内でも屈指の疲弊地区であった。

桜井君は、昭和三年以来、男女青年団指導員、在郷軍人新堂村分会長、農事実行組合副組合長等の要職を歴任し、その都度優秀なる成績を挙げて来た有能の士であるが、疲弊困憊(こんぱい)の極に沈淪(ちんりん)する部落の前途を憂へ、自ら率先して各戸主を招致し、先づ経済の基本調査を行ひ、それを基準として更生計画の具体的方策を確立した。更に支那事変勃発するや、農村経済への影響も少なからず、延びては履物製造業へも波及し来つたので、客年十一月陸軍被服廠大阪支廠に、兎毛皮継合加工の下請方を交渉し、十二月一日之が指定を受けるに至った。その労銀月二千円を下らない。而て右労銀中より一定の天引貯金をなし、後日に備へ、一方負債整理をやつて現在着々更生の実を挙げてゐる。

昨年三月十四日大阪府公道会長より、地区開発並に融和事業への功績顕著の廉(かど)により感謝状を授与された。

 桜井が大阪府公道会長より感謝状を授与された昭和一三年三月から八か月後の一一月、かつての同志北井正一は貧困のうちに病死した。一方、桜井は、殖産更生組合長・町内会長・在郷軍人会分会長などをつとめ、戦時中の新堂村の指導者として、昭和二〇年八月一五日の終戦を迎えた。