昭和初期、富田林市域のうち、川西村を除く一町六村(富田林町・新堂村・喜志村・大伴村・錦郡村・彼方村・東条村)には、尋常高等小学校が存在した。川西村には尋常小学校があったが、同じ村の中の五軒家(ごけんや)や加太(かた)から通うのには不便であった。大正一四年(一九二五)に分教場(分校)が設置されたが、尋常科だけであった。そこで、分教場の児童が高等科へ進学した場合は、狭山尋常高等小学校に通わねばならなかった。昭和三年(一九二八)からは、すでに高等科のあった錦郡(にしこおり)小学校に通った。川西小学校に高等科が併設されたのは昭和九年であった。小学校の名称は、東条村の有備(ゆうび)小学校以外は村の名前を冠していた。
義務教育である尋常科への就学率は、日本全国のほとんどの地域がそうであったように、富田林市域でも、ほぼ一〇〇%に近かった。しかし、高等科については、男子の進学が伸びつつあったが、女子は低いままであった。尋常科を卒業した児童は、高等科へ進むほかに、家業に従事したり働きに行ったりした。また、上級学校へ進学するものもあった。
錦郡小学校の児童数や、教員数は、大正一四年度の「小学校一覧表」を見ると、次のようであった。在籍児童数は、尋常科・高等科あわせて二三四人であった。学級数は、尋常科の三・四年生が合併クラスとなっていて五学級編成であった。高等科は一学級であった。教員は校長も含め六人で、全員が二〇歳から三三歳まで、そのうち女性は二人であった。彼方小学校の一四年度の「沿革誌」によると、尋常科を受け持つ教員は校長を含めて八人いた。校長以外は全員が一七歳から三三歳であった。その中で女性は四人であった。
昭和初期には、富田林市域での小学校校舎の増改築としては、喜志小学校の運動場の拡張があり、ほかには、彼方(おちかた)小学校、大伴小学校の増築があった。錦郡小学校では昭和二年、大阪市南区(現中央区)の精華小学校の木造校舎一棟を購入した。当時、大阪市中心部の小学校は校舎の鉄筋コンクリート化が進み、なかには、エレベーターを備えた学校もあったという。大阪市内から錦郡村にやってきた校舎は、村の中ではひときわ目立った存在だったという。