大正一五年(一九二六)四月二〇日、青年訓練所令が公布され、七月一日から全国いっせいに青年訓練所が開設された。この訓練所は小学校または実業補習学校に付設して、満一六歳を超えた男子青年に、入営までの四年間、軍事教練を主とした徴兵予備教育をなすものであった。
青年訓練所は四年間を通じて八〇〇時間、そのうち四〇〇時間を教練にあて、あとは修身・公民科一〇〇時間、普通学科二〇〇時間、職業科一〇〇時間であった。訓練は昼間に行うことを原則としたが、勤労青年を対象としたため、現実には地域に応じて夜間や早朝・夕刻に行われることが多かった。訓練修了者には、兵役における在営年限の半年短縮が認められた。青年訓練所は、おおむね実業補習学校に併置された。実業補習学校は小学校に付設されている場合がほとんどであったから、小学校に実業補習学校と青年訓練所が併設されたといってよい。青年訓練所は小学校の名前を冠した。
昭和一〇年(一九三五)四月一日の青年学校令公布即日施行により、実業補習学校と青年訓練所が統合されて、青年学校が全国に設置された。富田林市域でも、村ごとに青年学校が設置された。また、青年学校は村だけではなく、会社、事業所にもつくられた。昭和一一年度の彼方青年学校の生徒数は四三人であった。年間授業時間数二五九時間、そのうち学科一三二時間、教練一二七時間であった。同年度の喜志青年学校では生徒数は五七人となっている(「彼方村事務報告」昭和一一年「喜志村事務報告」昭和一一年)。
青年学校は、小学校卒業の男子を徴兵年齢まで教育することを主目的に設置された教育機関であったが、日中全面戦争への突入は青年層の徴兵前教育の充実化を要求した。青年学校義務化が国家的要請となったため、昭和一四年四月から男子義務制が実施されることになった。
新堂村の昭和一五年の「事務報告」によると、新堂青年学校では、生徒数三九人、職員数七人、授業が実際に行われたのは、一五年四月から一六年一月までの八五日間であり、出席率は七四・八%であった。
一六年四月になると、「大阪府南河内郡富田林町外七ヶ村青年学校組合」がつくられた。ここでいう七村とは、磯長(しなが)・山田(ともに現太子町)・新堂・喜志・大伴・川西・彼方である。青年学校に関する事務が一括され、村ごとに設置されていた青年学校は、四月三〇日統合され、組合立青年学校が富田林町に設置された。一七年、富田林町ほか六村の合併によって、学校組合に錦郡村が加わり、組合の区域が変更となった。
昭和一六年四月、小学校は国民学校と改称された。明治二二年(一八八九)から続いてきた東条村の有備尋常高等小学校(大正六年高等科併設)は、ほかの国民学校と同じく村の名前を冠して東条国民学校となった。富田林市域の川西村では昭和一七年四月、町村合併と同時に川西国民学校の分校が高等科を併設し、青葉丘国民学校と称した。
昭和一六年三月公布の国民学校令は、明治四〇年の小学校令改正以来の尋常科六年義務制を、初等科六年と高等科二年の八年義務制に延長するものであった。昭和一九年三月の初等科修了者から適用することになっていたが、戦局の極度の悪化にともない、一八年一〇月の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、義務教育八年制の実施は見送られた。なお、国民学校令は戦後の昭和二二年三月末をもって廃止され、四月から六・三制の小学校と中学校に移行した。