中等学校への入試の過熱

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大正中期に入ると、中学校・高等女学校(高女)などの上級学校への進学希望者がいっそう増え、受験競争が過熱化していった。昭和二年(一九二七)一一月、文部省は次官通牒で中等学校入学者選抜方法に関する準則を指示した。それによると、小学校長からの内申書、人物考査、身体検査によって入学者の選抜を行うこと、人物考査に口頭試問の方法を用いることになっていた。これに対して、大阪府の中学校長会は口頭試問のほかに口問筆答を行うという独自の方式を採用した。この方式で三年度と四年度は事実上、全科(国語・算術・国史・地理・理科)の学力筆記試験が行われたが、五年度からは大正一二年度以前の筆問筆答の試験方法が復活した。昭和一〇年代に入っても、中学校・高等女学校への入学難は解消しなかった。富田林中学校は昭和一〇年度入学者一五四人に対して入学志願者二二九人、一一年度入学者一四九人に対して入学志願者二九四人であった。富田林高等女学校は昭和一〇年度入学者一五七人に対して入学志願者二〇一人、一一年度入学者一五〇人に対して入学志願者二〇九人であった。

 昭和一一年七月一七日、大阪府は翌一二年からの中等学校入学試験の考査科目を、国史(日本史)一科目にするとの思い切った改革を発表した。大阪府の入試科目国史一科目制採用は、全国的にも反響をよび、賛成意見や批判的意見が続出した。出題は国体明徴に重点を置いたものが多く、どうしても似たような問題が出題されるのを避けることができなかった。一一年の府会では、中学校入学への過度な受験競争は小学校での教育の弊害となり、男子児童にとっては兵力・労働力の低下、女子児童にとっては母体を損なう、という理由から国史一科目入試制に対する賛成意見が述べられた。平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)文相は、「中等学校の入学試験は要するに小学六年の学力を試験するのであって、小学校においては国語と算術に主力を注いでゐるのであるから、試験科目を国史だけにすることは意味をなさないと思ふ。入学準備の弊害を除去する点からしても結局同じことになりはしないか」と否定的見解を示した(『大阪朝日新聞』昭和11・7・8)。大正中期以降、自由教育の一翼をになっていた木下竹次(奈良女子高等師範学校教授、同附属小学校主事)は、「国史一科目だけで全科目の智能を判定し得るといふことはもう少し説明を受けなければ諒解できない。入試科目を特定することは結局それに力を注ぐことになって、小学校の全一教育といふものが無視されはせぬか」と批判した(『大阪毎日新聞』昭和11・7・18)。翌年の府会学務部審査委員会席上で赤間文三学務課長は、受験の負担を減らすこと、義務教育の体系を乱さないこと、能力の判定が大事なこと、という三つの条件を挙げ、「斯ウ云フコトヲ非常ニ研究ヲ致シマシテ国史一科目ノ制度ヲ採用シタノデアリマス」と述べた。

 国史一科目入試制に変わっても、大阪府内での入学難は変わらなかった。昭和一四年八月、富田林高女の実宝(じっぽう)校長が知事に提出した「学級数増加之件申請」(河南高校所蔵文書)の中で、「本校ノ位置ハ大阪府全体ヨリ眺メテ(中略)極メテ不便ニテ、一タビ本校ノ入学考査ニ不合格トナリシモノハ通学可能ノ位置ニ高等女学校程度ノ学校ナク」「当地方ノ不合格者ハ誠ニ気ノ毒ナ状態ナリ」「向学心ニ燃ユル田舎ノ青年子女ヲシテ、其ノ目的ヲ達セシムルコト能ハザル土地ノ情況ヲ充分御考慮被下(くだされ)、来学年ヨリ生徒募集人員ヲ是非一学級分増加セラレ、カヽル気ノ毒ナ状態ヲ緩和セラレンコトヲ奉懇願候也」と述べている。昭和一三年三月調査の同校の入学志願者調べによると、一三年度入学志願者二五九人のうち、一九四人が南河内郡出身であり、富田林市域では、五六人が受験、そのうち二一人が不合格となっている。もはや、過熱化した受験の弊害を解決する方法は、学校の新設や学級の増設しかなかった。

 一四年七月、大阪府では、一五年度からの入試科目に算術と読方を加えることを検討しはじめたが、九月になって、文部省は学科試験全廃の方針をうちだしてきた。同月二八日の通牒には「入学者ノ選抜ハ小学校長ノ報告、中等学校ニ於ケル人物考査及身体検査ノ三者綜合判定ニ依ルコト」とあった。昭和一五年度、一六年度の入試も学科試験なしの入試が実施された。一五年度の入試では、富田林中学校は一四年度入試より入学志願者が一〇三人増え、富田林高女も九五人増えたが、定員が増えたため入学倍率に変化はなかった。

 昭和一七年、最初の国民学校初等科修了者が中等学校に進学する年を迎え、この年の中等学校入学考査から学区制(通学区域制)が採用された。