昭和一八年(一九四三)三月八日、改正師範教育令が公布され、師範学校は国家に移管されたため、大阪府天王寺師範学校および大阪府女子師範学校は、それぞれ大阪第一師範学校男子部、同女子部となった。また、大阪府池田師範学校は大阪第二師範学校となった。
一七年一二月、この大阪第二師範学校の女子部設置について、文教審査委員会で、南河内郡選出の府会議員内田愛蔵(昭和一二年七月補欠当選から二一年一二月までの九年六か月を府会議員として在職)からは「池田師範ノ女子部デモ宜シイガ、国費ヲ以テ立派ナ所ノ女子ノ教員ノ養成所ヲ併セテ設ケテ貰ヒタイ」という要望が述べられた。翌一八年一二月、文部省は第二師範の女子部設置を決定した。
大阪第二師範学校女子部は昭和一九年三月、富田林町毛人谷(えびたに)の富田林高女の旧校舎で開校した。二〇年四月には、富田林国民学校、富田林町立幼稚園が富田林町から第二師範学校女子部附属校に移管された。
戦後の昭和二四年、大阪第一師範学校と第二師範学校を統合して、大阪学芸大学(現大阪教育大学)が新制大学として発足した。この時、大阪第二師範学校女子部は、大阪学芸大学富田林分教場と改称され、四月には附属小学校が富田林町に移管された。二年のちの二六年三月三一日、分教場は廃校となった。廃校にともない、附属幼稚園は富田林市立富田林幼稚園となった。