敗戦と占領

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昭和二〇年(一九四五)八月一四日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌一五日の正午、天皇の録音放送によって終戦の詔書が国民に告げられた。神州不滅の信念のもと、このたびの大戦を聖戦としてすべてを祖国の勝利のためにささげてきた多くの国民にとって、日本の降伏は思いもかけぬ出来事であった。人々は茫然自失し、あるいは悲憤慷慨(ひふんこうがい)した。しばらくの間は、終戦の事実を信じようとしない人たちもいた。印象はさまざまであったが、国民は烈日のもとに厳粛な事実を知らされた。

 当時の日本人の大多数は、世界の情勢や戦局の推移について真実を知らされることなく、軍部による誇大きわまる戦果の発表を信じこまされていた。また、天皇に対する絶対的な尊崇の念と忠誠心をうえつけられていた。このような人々にとっては、敗戦をすぐに民主主義や自由への希望に満ちた出発として受け取ることはできなかった。したがって、日本国軍隊の無条件降伏、連合国軍による本土占領というわが国の歴史上いまだかつて経験したことのない事態を迎えて、いかなる混乱が発生するか、予想もつかないありさまであった。

 終戦の詔書と内閣告諭、そしてポツダム宣言全文を掲げた八月一五日の『朝日新聞』には、「四国宣言を受諾 皇国不滅に叡慮」「残虐原子爆弾使用 ソ連参戦も戦局を急転」「平和樹立後連合国軍は撤収」とあり、同じく詔書と告諭、ポツダム宣言を掲げた同日の『毎日新聞』には、「四国宣言を受諾す 新爆弾の惨害測るべからず」「一億団結・皇国再建へ新発足」と記された。同日の『朝日新聞』二面には、「今より不足勝ち 同胞相助けて耐抜かう」の見出しで「食糧」問題が取り上げられ、「戦争が済めば食糧その他生活用品の供出配給制の如きものが廃され自由に十分にいつでも入手し得るだらうなどと、甘い考へを抱くものがあつたら非常に危険である」と記したうえで、「農民は従来にも増して食糧の供出を整然と行ふことが国歩艱難(かんなん)の際における最大の奉公」「消費者たる一般国民は配給を受けた食糧がその時々によつて多いことがあり、少ないことがあつても自ら消費の調節者となつて、もし配給状態に遅速があつても自ら節制し、配給の過不足を補正することが実に必要となることを承知すべきである」と述べていた。翌一六日の朝日・毎日両紙は、前日正午の天皇の録音放送を聴く人々の写真を大きく掲げた。この日の『毎日新聞』は、「一路食糧増産へ」の見出しで、「今や赤子(せきし)の本分を尽し、真に皇国を護持してゆく大道は一に食糧増産をひたむきに続けることにある」「この秋の食糧苦難の道を拓(ひら)く鍬こそ緊要である」「この際われらは食生活を維持するために戦つて行きたい」と呼びかけた。同紙の翌一七日の記事「これからの国民生活」では、「食糧 増産!耕せ!作れ!」「〝本土自給〟に徹するのだ」と記された。膨大な数の兵士と民間人の生命を失い、空襲による惨憺(さんたん)たる荒廃の中で日本は敗北の日を迎えたのであったが、国民にとっての最重要課題は、いかに食糧を確保し明日を生き抜くかということであった。

写真123 戦争終結を報じる記事 (『朝日新聞』昭和20年8月15日)

 富田林高等女学校の教務日誌の八月一七日には、「午前11時ヨリ午後1時迄職員会議、午後1時ヨリ詔書奉読式」とあり、一八日には「8時半ヨリ詔書、内閣告辞ニツイテ担任ヨリ話ス」と記されている。そして、同校教務日誌は、八月二一日に「芝浦出動学徒解散式」と記したあと、八月二三日三岡工場、二四日金剛ベアリング、二七日近鉄および天美被服と川西被服、九月八日河南軍手、九月一一日中山太陽堂、九月一三日建武航空において、勤労動員学徒の解散式があったことを記録している。「芝浦」とは、東京芝浦電気富田林工場すなわちタンガロイ工場のことであり、「三岡工場」は富田林の三岡電機製作所のことであった。中山太陽堂は、大阪市浪速区に本社を置く化粧品会社であったが、昭和一八年に兵器部が設けられて海軍豊川工廠の管轄下で主に二五ミリ機銃弾体と同機銃弾の信管部品の下請け生産を行っていた。工場には、同社が昭和一五年に買収した南海電鉄車庫跡に建てた倉庫、発送場、営繕工場があてられた(『クラブコスメチックス80年史 創業中山太陽堂』)。この中山太陽堂の兵器工場に動員された当時富田林高女三年生だった江口淳子の記憶によると、一八工程の作業があって、阿倍野高等女学校の生徒と共に、動員された女生徒は旋盤を使って鉄の棒を削る作業などを行った。

 八月下旬から九月上旬の勤労動員学徒解散式の記録について、富田林高女三年生だった江口淳子・大山明代・中谷亀久恵・南條美知・山本澄子の五人の記憶では、生徒は終戦の後すぐに動員先を引き揚げていたから、先生が解散式に出張したのではないかとのことである(平成一三年八月一七日、富田林市史編集室の聞き取り調査による)。『毎日新聞』昭和二〇年八月一七日付には、「動員学徒 女学生は解除、休校」の見出しで、文部当局の話として「女子学徒は速やかに動員を解除して学校長の判断において適当と思はれる以外は一切休校とし、各自の家庭に帰り家庭教育によつて徳性を磨いてもらふやう手配してゐる」と記されている。『毎日新聞』の同記事には、「食糧増産は一番大事な問題だから取敢へずこれに重点を置き各学校によりそれぞれ適当と思はれる方法で食糧増産をやり、その他の時間には学校長の判断において適当と思はれる内容の教育を何分の見透しつくまでやつてもらふ」とも、述べられていた。富田林高等女学校の教務日誌の昭和二〇年九月八日には、「軍手配給」とあり、九月二五日には学校長が「生徒作業用ノ鍬ノ注文」に三日市へ行ったことが記されたあと、校長が指導した内容として、一〇月いっぱい増産に全力を注ぐ、鍬は教科書と同じく大切だから一挺ずつ買ってもらう、増産休みを二七日から三〇日までとる、進駐軍に対しては敵と思わないでよいが、毅然たる態度をとれ、といった言葉が記録されている。

 昭和二〇年八月一五日、鈴木貫太郎内閣が総辞職したあと、一七日に終戦処理を主な任務とする東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣が成立し、九月二日に戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印式が行われた。これに前後して、連合国軍の本土進駐が始まり、マッカーサー元帥を最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置された。日本が八月一四日に受諾したポツダム宣言には、対日終戦条件として、軍国主義の駆逐、民主的平和的日本建設までの連合国軍による占領、日本領土の限定、戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化が規定されていた。敗戦後における日本の民主的改革は、このポツダム宣言の精神に基づいて実施された。

 連合国軍の関西への進駐は、九月二五日に和歌山市近辺への上陸で始まった。二五日夜には、アメリカ軍の一部先遣隊が法円坂(現大阪市中央区)の中部二二部隊(第八聯隊)に入った。九月二七日には、第六軍第一軍団の主力が列車とジープやトラックなどに分乗し大阪に進駐した。

写真124 米軍の大阪進駐を報じる記事 (『朝日新聞』昭和20年9月28日)