日本の地方自治制度は、明治中期に制定された市制・町村制(明治二一年公布)と府県制・郡制(明治二三年公布)を経て、制度的には整備されてきたが、もともと官治的性格の色濃いものであった。政党勢力が伸長した大正期から昭和初期にかけて、市町村の自治権は若干の拡大をみせたが、満州事変から日中全面戦争、さらに太平洋戦争への突入という戦時体制下では地方自治は有名無実化し、戦争末期には中央政府→府県→市町村→町内会・部落会→隣組という一方的に上意下達を図る極度の中央集権体制が確立した。
民主的な政治体制を実現するためには、このような官治的地方制度を全面的に転換する必要があった。昭和二一年(一九四六)九月には、東京都制・府県制・市制および町村制の改正が行われ、民主化が著しく進められるとともに、地方公共団体の独立性が強められた。国の監督権が縮小され、男女平等の普通選挙権が与えられたほか、新たに直接請求の権利が認められ、地方議会の権限が強化され、首長の公選制が規定され、選挙管理委員会や監査委員のような行政委員会が設置されることになった。
翌二二年四月一七日に公布された地方自治法は、以上の諸点を受け継ぎこれを拡充し、関係法を一本化したものであり、日本国憲法とともに同年五月三日に施行された。これによって、地方自治の民主化はいっそう明確になった。日本国憲法第九二条の「地方自治の本旨」は、地方分権と住民自治の確立というかたちで、この時の地方自治法にはっきりと規定されたのであった。同じ五月三日に公布された政令によって、戦時中に地方行政の末端組織の役割を果たしていた町内会・部落会・隣組は解体されることになった。
二二年四月、新憲法を基礎とした民主主義体制へ移行するために、憲法施行を前にして各種の選挙が次々と行われた。まず四月五日に、地方自治体の首長選挙が一連の選挙の口火を切って実施された。市域の町村長選挙では、富田林町で西田伝三郎と当間元恒、東条村で向山正一と松本侃一が立候補した。当間元恒だけが日本共産党で、ほかの三人は無所属であった。富田林町では西田伝三郎(得票数九七〇七)が町長に当選し、東条村では向山正一(得票数五四二)が村長に当選した。
四月三〇日に行われた町村議会議員選挙では、市域の富田林町と東条村で合計六一人の候補者が立ち、四六人が当選した。両町村の定員と候補者数は、富田林町が定員三〇人に候補者四四人、東条村が定員一六人に候補者一七人であった。東条村の候補者はすべて無所属であったが、富田林町の候補者四四人のうち三人が政党に所属していた。この三人の内訳は、共産党二人、民主党一人であったが、いずれも当選しなかった。共産党の二人のうち一人は、同月五日の町長選挙に立候補した当間元恒であった。町長選挙での当間の得票数は一二一六票であったが、町議会議員選挙での得票数は一八八票であった。いま一人の共産党の町議会議員候補者の得票数は一九四票であった。二人の得票数の合計は三八二票であったから、町長選挙では当間がそうとう善戦していたことがわかる。なお、町議会議員選挙の当選者三〇人のうち一九人は、三七二票以下で当選していて、最下位当選者の得票数は二四一票であった。
四月五日の府知事選挙では、日本自由党の赤間文三が当選した。富田林町での得票数をみると、赤間が六八二一票、日本社会党の香月保が二四〇八票であった。東条村での赤間の得票数は五六〇票、香月の得票数は二四九票であった。町村議会議員選挙と同じ三〇日に行われた府議会議員選挙では、南河内郡から古川幸吉(国民協同党)、西田伝三郎(民主党)、田中梅太郎(無所属)、奥田亨(民主党)、溝端茂(民主党)の五人が選出された。
国会議員の選挙については、四月二〇日に第一回参議院議員選挙、二五日に第二三回衆議院議員総選挙が実施された。参議院議員選挙大阪地方区の当選者は、得票順に六年議員が岩木哲夫(民主党)、森下政一(社会党)、中井光次(民主党)、三年議員が左藤義詮(自由党)、大屋晋三(自由党)、村尾重雄(社会党)であった。富田林町での党派別得票数をみると、民主党が二人の候補で四四九六票ともっとも多く、次いで社会党(三人)は一八四五票、自由党(二人)は一七五四票、日本改進党(一人)二三三票であった。東条村での党派別得票数は、民主党三五二票、自由党二三〇票、社会党一三九票、日本改進党二〇票であった。
第二三回衆議院議員総選挙は、中選挙区・単記制が復活して、富田林市域の町村は大阪府第四区(定員四人)に属することになった。この選挙の結果を、大阪府第四区全体と市域の町村での各候補者の得票数についてみると、表83のとおりである。第四区の当選者は民主党二人と社会党二人であったが、富田林町では無所属の和島岩吉が得票数第一位の田中万逸に次ぎ、次点だった自由党の松永仏骨が、当選した社会党の久保田鶴松の得票数を超えていた。東条村では、第四位当選だった喜多楢治郎が第二位の叶凸と第三位の久保田鶴松の得票数を超えていた。
氏名 | 党派 | 総得票数 | 富田林町での得票数 | 東条村での得票数 |
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※田中万逸 | 民主党 | 45,409 | 6,362 | 606 |
※叶凸 | 社会党 | 39,078 | 926 | 63 |
※久保田鶴松 | 社会党 | 33,663 | 490 | 56 |
※喜多楢治郎 | 民主党 | 31,701 | 1,226 | 192 |
松永仏骨 | 自由党 | 29,228 | 560 | 40 |
和島岩吉 | 無所属 | 20,059 | 1,452 | 33 |
鈴木愛之助 | 自由党 | 12,071 | 281 | 8 |
加藤充 | 共産党 | 8,348 | 238 | 13 |
玉島照波 | 無所属 | 2,728 | 72 | 5 |
小川保夫 | 無所属 | 1,735 | 30 | 1 |
魚崎嘉三郎 | 自由党 | 1,664 | 83 | 1 |
岡田隆一郎 | 無所属 | 623 | 20 | 1 |
注)※印を付したのは当選者。
この時の国政レベルの選挙の結果、保守勢力の優位は動かないものの、社会党が両院で第一党となり、片山哲を首班とする社会党・民主党・国民協同党の連立内閣が出現した。わが国で初めて、社会主義政党が内閣を組織したのであった。