昭和二一年(一九四六)六月二二日、富田林町では、戦前からの横谷亀重町長に代わって西田伝三郎が町長に就任した。西田伝三郎は明治二六年(一八九三)二月四日に新堂村の農家の長男に生まれ、明治四四年二月に大阪府立富田林中学校を卒業した。中学校卒業後科長原(しながはら)尋常小学校の代用教員をつとめたのち、大正二年(一九一三)に大阪府の判任文官となり昭和一七年まで二九年間つとめた。この間の昭和二年には大阪府警部を兼任し、昭和七年に地方事務官、大阪府総務部会計課長、昭和一六年大阪府学務部社会課長兼住宅課長代理などをつとめた。昭和一七年七月二一日から翌一八年九月四日までは、岸和田市長寺田甚吉のもとで同市助役をつとめ、二〇年四月二六日から二一年二月まで泉北地方事務所長をつとめた。太平洋戦争中の昭和一七年に設置された地方事務所は、戦争目的を末端まで浸透させるとともに、行政事務の敏速化を図ることをねらいとしていた。一七年七月一日に泉北財務出張所が廃止され、同日泉北地方事務所が設置された。西田伝三郎は、戦争末期に同事務所二代目所長となり、戦後の二一年二月までつとめた。戦後の地方事務所は、地方自治法一五五条によって都道府県知事がその権限に属する事務を分掌させるため、条例で必要な地に設ける出先機関となった。なお、泉北地方事務所は、昭和四七年四月に府民センターと改称された。
昭和二二年四月の町長選挙では、西田伝三郎が無所属で立候補して共産党の当間元恒を大差でおさえ当選したことはすでに記した。同月三〇日に行われた府議会議員選挙では、西田伝三郎は民主党で立候補し南河内から府議会議員に選出された。昭和二二年公布の地方自治法では町長と府議会議員を兼ねることができた。二三年の同法改正法では兼ねることができなくなったが、現在の職の期間中は抵触しないという附則第一条―二により、西田は任期いっぱい町長と府議会議員を兼ねた。
府議会議員選挙と同日に行われた町村議会議員選挙では、富田林町に三〇人の議員が誕生した。当選した三〇人の氏名と職業は次のとおりであった。
小山伊太郎(会社重役)、小路周一(印刷会社職員)、喜田米司(農業)、炭谷友治郎(木工業)、松尾太三郎(農業)、西尾清松(富田林町農業会職員)、尾崎茂一(農業)、藤本安太郎(無職)、西尾順三(農業)、森田佐平(会社重役)、北野健三(織物製造業)、松村みさを(教員)、田中安治(食糧営団配給所主任)、谷口庄太郎(農業)、松浦清逸(医師)、武田重太郎(農業)、吉村信正(医師)、大谷徳松(会社員)、山口宇三郎(醤油製造業)、余保岩吉(竹籠商)、杉多計吉(製簾業)、西田清太郎(質屋業)、梅川寅一(農業兼製簾業)、堀井辰治郎(農業)、浦野利一(農業)、今道善作(農業会職員)、原田儀三郎(農業)、桜井徳光(会社員)、北田勇(南河内授産場専務理事)、土井平治郎(会社員)。