昭和二〇年(一九四五)一〇月二二日、GHQは「日本教育制度ニ対スル管理政策」を指令し、軍国主義や国家主義を排除し、平和主義と基本的人権思想に基づく教育の確立を求めた。同月三〇日には、軍国主義・超国家主義の教育を推進した教育関係者の追放が指令され、一二月一五日の国家神道の排除に続いて、同月三一日には修身・日本歴史および地理の授業停止とそれらの教科書の回収が指令された。修身・国史・地理以外の教科書は、不適当な部分を墨で塗りつぶして使用することになった。
修身教育の象徴であった「御真影」と「教育勅語」も、学校現場から除去された。当時中河内郡に属していた現在の松原市域各町村の小学校「沿革誌」には、昭和二一年一月二九日「御真影奉還」「教育ニ関スル勅語謄本奉還」と記されている。富田林市域の川西小学校の「沿革誌」には、「昭和二十一年一月二十九日天皇陛下皇后陛下御真影奉還ス」とあり、「同日午前八時五十分、町内各代表児童沿道ニ堵列(とれつ)奉送ノ中ヲ、南校長捧持、巡査護衛、役場町長代理尾野教頭付添ヒノ上、九時四分川西駅発、地方事務所ニテ奉還ス」と記されている。喜志小学校、新堂小学校の「沿革誌」にも、同じ日に「御真影」を返したことが記されている。ただし、川西・喜志・新堂の各小学校「沿革誌」は、「御真影」と同じ日に「教育勅語謄本」を返したとは記していない。川西小学校の「沿革誌」では、昭和二一年一〇月一五日の「南教発第六〇四号」による命令として、「教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考へ方を去つて、これと共に教育の淵源を広く古今東西の倫理哲学宗教等にも求める態度を探るべきこと」「式日等に於て従来教育勅語を奉読することを慣例としたが、今後はこれを読まないことにする」「今後も引つゞき保管すべきもこれを神格化せざること」と記されている。川西小学校の「沿革誌」は教育勅語返還の記録を欠いているが、喜志小学校と新堂小学校の「沿革誌」には、二三年七月二六日に「教育に関する勅語謄本」「青少年学徒に賜りたる勅語」などを返還したと記している。富田林市域の各小学校では、教育勅語による教育は指令によって停止したものの、二三年七月まで保管していて、同月二六日に返還することになったようである。
昭和二一年三月初め、GHQの要請によりアメリカ合衆国教育使節団が来日し、日本の教育状況を視察して同月三一日に教育の民主化を勧告する報告書を提出した。この報告書の趣旨に沿った教育改革を進めるため、同年八月に総理大臣所轄の教育刷新委員会が設置された。同委員会はこの年一二月に義務教育の九年制と教育委員会の設置などを建議し、翌二二年三月三一日に教育基本法と学校教育法が公布された。
教育基本法は、平和と民主主義、個人の尊厳を基調とした教育理念を掲げた戦後教育の根本法であり、学校教育法は明治以降の教育制度上の最大の改革である六・三・三・四制の実施を定めたものであった。これによって国民学校は小学校の名にもどり、新制中学校が設置されて九年間の義務教育が実施された。なお、青年学校はこの時をもって廃止された。二三年四月一日には新制高等学校(全日制・定時制)が発足した。
GHQは一連の教育改革の中でも、新制中学校の設立をもっとも優先して実施するよう要求した。学校教育法が公布された翌日、二二年四月一日から全国いっせいに新制中学校が発足することになった。廃止された国民学校高等科の児童と青年学校普通科の生徒は、新制中学校に吸収された。
新制富田林町立中学校は二二年四月一日に設立され、富田林町立青年学校長だった松山善清が同日に初代校長として赴任した。開校式と入学式は、四月二一日に旧制富田林中学校講堂において挙行された。富田林町立中学校には、新堂小学校・喜志小学校・大伴小学校・川西小学校・錦郡(にしこおり)小学校・彼方(おちかた)小学校・青葉丘小学校の六年卒業生が第一学年に入学し、高等小学校第一学年修了者が第二学年、同第二学年卒業生のうち希望する者が第三学年にそれぞれ編入した。昭和二〇年四月一日から大阪第二師範学校女子部に移管されていた富田林小学校の卒業生は、同校女子部附属の新制中学校に入学した。大阪第二師範学校女子部は、昭和一八年一二月に戦時下の教員不足に対処するため設置されていて、翌一九年四月、富田林高等女学校の新校舎への移転にともない、そのすぐ東に位置していた富田林高等女学校の旧校舎に開校していた。
新制の富田林町立中学校は、開校当時独立校舎が一棟もなかったので、各所に分散して授業が開始された。一年生男子は旧制富田林中学校の校舎の一部、一年生女子は富田林高等女学校校舎の一部を借り、六月二日以降ここで授業を受けた。二年生の授業は、それぞれの出身小学校の校舎で行われた。三年生は旧富田林青年学校校舎を使用し、学校の本部もここに置かれた。昭和二二年の「富田林町事務報告」には、町立中学校の生徒数および学級数は、第一学年四一〇人(男一九三、女二一七)一〇学級、第二学年二五三人(男一三一、女一二二)七学級、第三学年三二人(男一六、女一六)一学級とあり、「校舎の一部を富女並に富中両校より借り受け第一学年の授業に当て他二学年は母校の一部にて授業を行ふ、尚川西校に於て一学年の男女二学級を置く」と記されていた。
富田林町立中学校の分散授業形態、すなわちあちこちの校舎の一部を借りて生徒を分散して行う授業形態が解消されたのは、昭和二三年四月であった。富田林市立第一中学校の「沿革誌」は、二三年四月二八日「連合軍の指示により義務教育優先の趣旨に則り府立河南高等学校の校舎一切を本校に転用することになり本日移転完了する」「分散教育の解消」と記している。二年後の二五年四月に市制が実施された時、生徒数増加に対処するため中学校一校が増設され、既設の富田林町立中学校は富田林市立第一中学校と改称し、新設中学校は富田林市立第二中学校と称した。第一中学校の学区は富田林小学校・喜志小学校・新堂小学校・大伴小学校の四小学区、第二中学校の学区は川西小学校・錦郡小学校・彼方小学校・青葉丘小学校の四小学区とされた。第二中学校の校舎には、旧大阪第二師範学校女子部附属中学校川西校舎の一棟五教室を借用した。
ところで、昭和二五年には、富田林高等学校の校舎を共用していた河南高等学校の入学者が急増し教室が不足したため、元の河南高校の校舎すなわち市立第一中学校の校舎を河南高校で使用したいという問題が生じた。市立第一中学校は校舎の一部(一〇教室)を河南高校に返還し、一年生の三学級を大阪第二師範女子部附属中学校に依託した。翌二六年三月三一日、大阪学芸大学富田林分教場(大阪第二師範学校女子部)が廃校となり、同校校舎は市立第一中学校が使用することになった。新制中学校発足以来大阪第二師範女子部附属中学校に入学していた富田林小学校の卒業生は、二六年四月一日からすべて市立第一中学校に入学することになった。なお、同年五月六日、市立第一中学校が使用していた河南高校の校舎は、すべて同高校に返還された。