農地改革は、財閥の解体、労働組合の結成奨励と並んで、戦後の民主改革の中でもっとも重要なものの一つであった。昭和二〇年(一九四五)一二月公布の農地調整法(二一年二月一日施行)による第一次農地改革は不十分なものであったために、二一年六月、連合国対日理事会は日本政府に対して、より徹底した農地改革の実施を勧告した。この結果、農地調整法の一部を改正する法律と自作農創設特別措置法が二一年一〇月二一日に公布され、前者は同年一一月二二日から、後者は一二月二九日から施行された。これがいわゆる第二次農地改革であって、次に挙げる農地を国家が強制的に買収したのち、小作人に売り渡されることになった。
(1)不在地主が所有する小作地
(2)在村地主が所有する小作地については大阪府の場合は六反を超える分(北海道以外の全国平均は一町)
(3)在村地主が所有する六反以下の小作地でもその者の所有する自作地の面積との合計が大阪府の場合は一町九反を超える小作地(全国平均は三町)
(4)耕作の業務が適正でない自作農の所有する一町九反(大阪府の場合)を超える自作地
(5)仮装自作地
(6)法人その他の団体の所有する小作地
(7)法人その他の団体で耕作の業務が適正でないものの自作地
(8)現に耕作の目的に供していない農地
(9)地主が自発的に買収を申し出た農地
農地改革の実施機関である市町村農地委員会は、昭和二一年一二月二四日に発足した。その委員は地主三・自作二・小作五の階層別代表制によって選挙された。農地委員会は、新生日本における最初のコミッション制度、すなわち合議制による行政機関であったから、その意義を認識して同委員会がどれほどの成果を上げるかは、すべて国民の注目するところであった。
大阪府内の農地改革事業は、農地委員会の選任、地主保有面積および経営基準面積の決定によって準備態勢を整えた。そして、二二年三月末を第一回買収期日とする政府による事務の急速処理通達を受けて、いっせいに農地買収の業務が推進された。その結果、大阪府内農地委員会において、約三〇〇〇町歩(全解放予定面積の約一四%)の農地が三月末までに買収された。これ以後、二五年三月二日を期日とする第一五回に至るまで、合計二万〇六〇一町歩の農地が、府内の農地委員会によって買収された。
富田林町には、富田林・新堂・喜志・大伴・川西・錦郡・彼方の七地区に農地委員会が設置された。これは昭和一三年四月当時の行政区域に一農地委員会を置くという方針によるものであった。地区に不在の地主の小作地はすべて買収の対象となり、在地区地主は小作地を六反しか所有できないことになり、在地区自作農兼地主も自作地、小作地(六反まで)をあわせて一町九反までは保有できるが、それ以上は買収されることになったのである。東条村にも農地委員会が設置された。第一回府農地委員会委員選挙は、二二年二月二五日に第一選挙区と第二選挙区に分けて行われた。南河内郡が属する第二選挙区で、富田林町大字喜志の浦野利一(全農)が当選した。
富田林町では、地区農地委員会設置に至る過程でかなりの紛糾があった。富田林町は昭和一七年四月に、富田林町・新堂村・喜志村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方村の一町六村が合併して町域が大きく拡大していた。農地改革にあたり、地区農地委員会を設置するか否かについて関係地主が会合して対策を練り、全町一委員会に決定するよう町当局に対して猛烈な運動を開始した。これに対し、合併前の各町村域の農民は、旧町村の地区に委員会を設けるよう強く求め、激しい紛争が起こった。大阪府の調停の結果、農地改革の精神に添うという各方面の了解が得られ、農民の期待どおり七つの地区農地委員会が誕生した。これによって、富田林町では四五八町五反余の農地が買収された。このうち、不在地主所有地買収面積は二〇九町であった。もし、合併後の富田林町全域を区域とする一委員会が設けられていたとするならば、合併後の在村地主二二一人の保有すべき平均六反の小作地一三二町を差し引いた七七町の不在地主所有地の買収にとどまるのであって、この場合には総買収面積は三二六町となり、実際よりも約一三二町の解放減であった。それだけに、地区決定は、地主にとっても関係小作農にとっても大きな関心事だったのである。
昭和22年 | 昭和27年 | |||
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農家数 | 構成比 | 農家数 | 構成比 | |
戸 | % | 戸 | % | |
自作 | 576 | 28.33 | 1,558 | 69.96 |
自作兼小作 | 351 | 17.27 | 426 | 19.13 |
小作兼自作 | 255 | 12.54 | 136 | 6.11 |
小作 | 851 | 41.86 | 107 | 4.80 |
計 | 2,033 | 100.00 | 2,227 | 100.00 |
注)昭和22年「富田林町事務報告」、『大阪府統計年鑑』昭和28年版から作成。
買収の第一回実施期日は二二年三月三一日であり、売り渡しの第一回は同年七月二日であったが、その後、着々と農地解放が進み、二五年度中にほぼ買収事務が完了し、それぞれ農業に専念すると認められた耕作農民に売り渡された。こうして、明治以来の日本の農村を支配した地主制は、農地改革によって大打撃を受けて崩れ去ったのである。
ところで、富田林市域における農地の買収と売り渡しの最終実績は、『大阪府農地改革史』によると、表85と表86のとおりであった。なお、『大阪府農地改革史』には、「府農地委員会未墾地買収実績表」と「市町村農地委員会未墾地買収実績表」が掲載されている。その中から、富田林市域における未墾地買収実績だけをまとめたのが表87である。この表にみえる旭ヶ岡開拓農業協同組合について、『大阪府農地改革史』はとくに項目を設けて、開拓の開始から戦後の状況、開拓者の苦労などについて記している。
田 | 畑 | 溜池 | 宅地 | |||||||
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町 | 反 | 畝 | 町 | 反 | 畝 | 町 | 反 | 畝 | 坪 | |
富田林地区 | 9 | 1 | 6.29 | 0.60 | ― | 909.53 | ||||
新堂地区 | 77 | 7 | 2.24 | 3 | 4 | 0.27 | 1 | 7.25 | 3,042.51 | |
喜志地区 | 49 | 8 | 3.03 | 9 | 1 | 5.23 | ― | 11,516.26 | ||
彼方地区 | 63 | 4 | 2.11 | 4 | 3 | 7.09 | 2 | 7.23 | 14,078.33 | |
錦郡地区 | 67 | 9 | 7.07 | 4 | 4 | 0.19 | 9 | 5.17 | 9,753.99 | |
大伴地区 | 59 | 2 | 3.10 | 5 | 1 | 2.25 | 5 | 1.23 | 13,017.86 | |
川西地区 | 75 | 9 | 0.22 | 7 | 9 | 7.05 | 8 | 3 | 2.23 | 13,696.02 |
東条地区 | 66 | 6 | 6.20 | 41 | 1 | 2.21 | 9 | 0.18 | 10,790.84 |
注)『大阪府農地改革史』から作成。
田 | 畑 | 溜池 | 宅地 | |||||||
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町 | 反 | 畝 | 町 | 反 | 畝 | 町 | 反 | 畝 | 坪 | |
富田林地区 | 9 | 1 | 2.13 | ― | ― | 909.53 | ||||
新堂地区 | 77 | 7 | 7.11 | 3 | 3 | 6.10 | 1 | 1.21 | 3,042.77 | |
喜志地区 | 49 | 6 | 4.25 | 8 | 6 | 1.25 | ― | 11,518.77 | ||
彼方地区 | 76 | 8 | 3.16 | 4 | 1 | 6.14 | 2 | 6.28 | 13,946.17 | |
錦郡地区 | 67 | 9 | 7.06 | 4 | 4 | 0.26 | 7 | 5.01 | 9,753.99 | |
大伴地区 | 59 | 2 | 9.07 | 4 | 9 | 2.12 | 5 | 9.28 | 12,871.59 | |
川西地区 | 75 | 6 | 1.14 | 7 | 4 | 6.03 | 8 | 3 | 3.29 | 13,599.53 |
東条地区 | 65 | 9 | 9.29 | 40 | 9 | 6.17 | ― | 10,504.17 |
注)『大阪府農地改革史』から作成。
買収主体 | 地区 | 面積 | ||
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町 | 反 | 畝 | ||
大阪府 農地委員会 |
旭ヶ岡 | 25 | 6 | 4.31 |
富田林 | 2 | 5.00 | ||
市町村地区 農地委員会 |
川西地区 | 5 | 2 | 3.23 |
彼方地区 | 3 | 1.20 |
注)『大阪府農地改革史』から作成。