戦後の地方行政の民主化は、地方自治法をはじめとする法の整備によって、昭和二四年ごろまでに制度的にはほぼ完全に近いかたちで実現された。なかでも、警察と教育に関する権限が大幅に地方自治体に移されたことは、画期的な大改革であった。ところが、これらの改革に見合うだけの財源的な保障がほとんど行われなかったところに、戦後地方自治の不幸な出発があった。とくに昭和二四年度予算におけるドッジ・ラインの強行は、多くの仕事をかかえて財政的に困っていた自治体をいっそう苦境に追い込んだ。昭和二四年(一九四九)五月にシャウプ博士一行が来日したのは、このようなわが国の地方自治の状況を税財政の面から再検討するためであった。同年八月のシャウプ勧告は、中央・地方を通ずる税制の改革、および行政事務と財源の再配分を求めたものであって、「地方自治のための仕事は、市町村に第一、都道府県に第二の優先権を与え、中央政府は地方ができない仕事だけを引き受けるべき」ことを提言していた。
こうしてシャウプ勧告によって、地方自治の内面的充実が図られようとした矢先、二五年六月に起こった朝鮮戦争は、アメリカの日本占領政策に大きな変更をもたらし、もっぱら分権化と民主化の道を進んできた地方行政が能率化と経済化の方向に転じはじめた。マッカーサー罷免のあと、連合国軍最高司令官になったリッジウェイ中将が就任早々の二六年五月一日に発した「占領下諸法令の再検討の権限を日本政府に付与」する旨の声明は、いわゆる逆コースの出発点となり、講和独立の態勢が整っていく中で、中央集権的な政治体制への再編成が始まった。しかし、このような総司令部と日本政府の方向転換が進む一方で、年月の経過とともに、自治体レベルの選挙や請願権の行使などの制度が住民に身近なものになり、地方自治の理念が定着しだしたことも確かであった。
昭和二六年四月二三日、富田林市長選挙が実施された。二二年四月の富田林町長選挙に次ぐ戦後二度目の首長選挙であり、市制実施後の最初の市長選挙であった。立候補者は、辻本幸臣(日本社会党)、尾崎茂一(自由党)、西岡実(無所属)の三人であった。辻本幸臣は日本社会党富田林支部長で弁護士、尾崎茂一は富田林市議会議長、西岡実は菊水学園理事長であった。結果は、尾崎が七一九五票を得て、五二〇九票の西岡、二八一五票の辻本を破って当選した。
尾崎茂一は明治三〇年(一八九七)一一月に廿山(つづやま)村(明治三二年川西村に改称、現富田林市)に生まれ、四五年に富田林町外六ヶ村組合立高等小学校を卒業後、上京してしばらく勤労と勉学の生活を送ったのち帰郷し、川西村書記となった。大正六年(一九一七)一二月には呉海兵団に入団し、一一年一一月に満期を迎えたのち再び上京し、一二年四月から約二年間東京万朝報(よろずちょうほう)社営業部に勤務した。大正一四年に郷里に帰って再度川西村書記となったのち、昭和四年に大阪府巡査となり五年間つとめた。その後、大阪木津市場事務所や大阪中央魚類会社などにつとめた。戦後、二二年四月の富田林町議会議員選挙に当選し、二五年四月の市制実施とともに市議会議長となった。市長選後の『朝日新聞』(昭和26・4・29)に掲載された「新市長はこんな人」には、尾崎市長は「世渡りの古強者」だが「およそハッタリとは縁遠い」「世話好き」と紹介されていた。尾崎は、自由党系の地盤と市議会での力を背景に当選したのであった。
同じ日の富田林市議会議員選挙は、三〇議席を一・八倍の五五人の候補者が争った。結果は現職九人、新人二一人が当選した。選挙前の議員はすべて保守系無所属の男性議員であったのに対して、新しく当選した議員の中には、日本社会党所属の議員が二人、自由党所属の議員一人、無所属の女性議員一人が含まれていた。選挙の結果、新しい風が市議会に吹き込んだといってよい。
続いて四月三〇日に行われた府議会議員選挙では、富田林市から自由党の西田伝三郎が無投票で再選された。同日の知事選挙は、自由党の赤間文三と日本社会党の杉山元治郎の事実上の一騎打ちの結果、赤間が再選された。この時の富田林市域における両候補者の得票は、富田林市で赤間七四七八票、杉山四三六七票、東条村(現富田林市)で赤間が七九〇票、杉山四二五票であった。
なお、東条村では、昭和二二年四月五日の村長選挙で当選した向山正一が二五年七月五日に村長を辞任し、八月一二日に村長選挙が実施された。この時の選挙には中尾謙二と松本侃一が立候補し、中尾が松本を破って当選した。中尾謙二は向山村長のもとで収入役、次いで助役をつとめ、向山村長辞任のあと村長代理助役となっていた。中尾謙二村長は一年四か月後の二六年一二月に辞任していて、翌二七年二月三日の村長選挙には東条村議会議長だった松村清一と山際繁治が立候補し、松村が当選した。