昭和二六年(一九五一)九月、サンフランシスコ講和会議が開かれ、日本とアメリカを中心とする四八か国との間にサンフランシスコ平和条約が調印された。翌二七年四月二八日、この条約が発効したことによって、六年八か月にわたった占領下の時代は終わった。連合国軍最高司令部による国家予算の許可制や法案の事前承認制はなくなり、国家主権に対する超憲法的制約は消滅した。日本の独立が回復されたのである。それとともに、地方自治制度は大きな転換期を迎えることになった。すなわち、占領政策のいきすぎを是正し、日本の実情に適合させるという名目と、組織・運営の簡素化、能率化と合理化を図るという観点から、地方制度が急速に中央集権化の方向にもどされる時代となったのである。
二七年の第一三回国会における地方自治法の改正(八月公布)は、独立回復後の地方自治制再編の端緒となったものであった。改正された主な点を挙げると、①地方公共団体に対する国の委任事務を整理したこと、②地方公共団体の議員定数を条例で減少できるとし、議会の定例会を年六回から四回にしたこと、および各種行政委員の数を減じたこと、③市町村の合併を促進するために国と都道府県知事の権限を定めたこと、などであった。戦後七年間、地方自治は一貫して分権化と民主化、すなわち地方自治体の権限強化の方向を進んできたが、このたびの改正は能率を主眼として中央集権化を指向していた。とくに都道府県知事に対し、市町村の廃置分合および境界変更に関する計画を定め、これを関係市町村に勧告する権限を与えるとともに、この計画を内閣総理大臣に報告させ、国の行政機関にもこれを促進するための必要な措置を講ずべき義務を課したことは、自治体の合併が政府によって強力に推進される根拠となった。
二八年九月一日、町村合併促進法が三年後の九月三〇日までの時限立法として公布され、一〇月一日から施行された。町村の組織とその運営を合理化・能率化し、住民の福祉を増進するよう規模の適正化を図るというのであった。具体的には、町村の基準人口を八〇〇〇人程度とし、町村数をおおむね三分の一程度に減少させることがねらいとされていた。この法律の施行によって、全国の町村合併が強力に推し進められ、明治二二年(一八八九)の市制・町村制施行時以来の大規模な町村合併が実施された。この大合併のあとは、昭和三一年の新市町村建設促進法、三七年の新産業都市建設促進法、同じく三七年の市の合併の特例に関する法律により市町村合併が進められ、四〇年には市町村の合併の特例に関する法律が公布され、合併関係法がまとめられた。