昭和三二年(一九五七)一月一五日、富田林市は東条村を編入するかたちで合併した。合併関係書類の中の「現況書」によると、富田林市の人口は三万二四五〇人、東条村は二三七六人であった。面積は富田林市が三〇・五平方キロ、東条村が九・一平方キロであったから、合併後の富田林市は三九・六平方キロとなった。合併式は一月一五日午前九時から富田林市公民館で挙行され、午後二時から議事堂において事務引継ぎが行われた。三二年二月七日付の『広報とんだばやし』第七一号は、「みかんと史蹟の新市域」の見出しで、「四十一町歩のみかん畑の年間生産高は九万貫」「農家は殆(ほとん)ど米作と果樹経営の兼業農家で、みかんの生産額は米の数倍にも及んでいる」と記し、「新市域には観光地として龍泉(りゅうせん)寺や楠妣庵(なんぴあん)があり楠氏にまつわる史蹟も多く散在している」と報じた。
東条村との合併の動きが具体化したのは、前年九月であった。東条村からの合併申し出を受けて、富田林市議会が合併に関する審議案を可決したのは三一年九月二二日であった。この議案可決後、市長・助役・収入役・議長・副議長・総務委員長・同副委員長の七人が合併促進委員に選出され、東条村の村長・助役・収入役・議長・副議長・総務委員長との間で合併に関する協定について合意に達したうえで、九月二四日の富田林市議会で「合併申請に関する件」と「合併に伴う財産処分に関する件」が可決された。富田林市と東条村の間で取り交わされた「合併協定書」には、「富田林市に編入合併とする」、合併時期は「昭和三一年十一月一日を目途とするも、諸手続完了次第」とあり、「市議会議員に代わる可きもの(例えば協議員)参名東条村より選出し、市政に参与する」と記したあと、「農業委員会の区域並びに任期定数」「地方税の賦課」「財産造営物の処分」「部落連絡員の設置」「教育委員」などについて取り決められていた。
合併申請書が大阪府知事に提出されたのは九月二七日、この申請が府議会で可決されたのは一二月二一日であった。そして、同月二八日付総理府告示によって、「大阪府南河内郡東条村を廃し、その区域を富田林市に編入する」「配置分合は昭和三十二年一月十五日からその効力を生ずるものとする」とされたのであった。
ところで、『朝日新聞』昭和三〇年一一月一八日付によると、東条村の松村清一村長が村議会の決議を受けて、富田林市に合併を申し入れたのは、三〇年一一月一七日であった。この東条村の動きが引き金となって、二日後の一九日に石川村も富田林市に合併を申し入れた。同紙の三一年五月三〇日付は、富田林市議会に「東条、石川合併委員会を設置」と記し、六月五日付は「さる一日にはさらに千早、赤阪両村」が富田林市に「正式に合併申入れを行った」と報じた。七月二一日には、中村・白木村・河内村も富田林市に合併を申し入れた。富田林市では、東条・石川・千早・赤阪の四か村の合併申し入れ以来、合併に対する賛否両論が相拮抗し、『広報とんだばやし』三一年八月一〇日付第六六号には、「合併是か非か?公聴会の結果報告」と題する記事が掲載された。『広報とんだばやし』三一年九月一七日付は、「第七回緊急市議会開かる」「合併問題特別委員会報告」の見出しで、九月八日の臨時市議会の模様を報じた。同記事は、「合併すべしとの陳情」と「合併反対の請願書」の対立状況の中で、「合併賛成とも合併反対とも決定することが困難」との結論に達したと書いたうえで「市長所見」を掲げ、このたびの七か村からの合併申し入れは見合わせることになったと記していた。この七か村と富田林市の合併案がくずれたあと、中・白木・河内・石川の四か村が合併して「河南町」を作ることが確定し、三一年九月一一日に大阪府知事宛て合併申請が行われた。千早・赤阪両村も合併して千早赤阪村となることが決まった(『朝日新聞』昭和31・9・12)。七か村のうち単独で残った東条村は、再度富田林市に合併を申し入れ、前述のように富田林市もこれを受け入れて合併が実現したのであった。