昭和三四年(一九五九)四月三〇日に、富田林市長選挙・富田林市議会議員選挙・参議院議員補欠選挙が行われた。市長選挙には西岡実・上辻大治郎・伊藤忠輝の三人が無所属で立候補し、結果は尾崎茂一市長のもとで八年にわたり助役をつとめた上辻大治郎が当選した。上辻の得票数は九一二八票(得票率四九・六%)、西岡の得票数は七九一七票(同四三・〇%)であった。なお、三〇年四月の富田林市長選挙では、尾崎茂一と西岡実の二人が無所属で立候補し、尾崎(得票数八七九七票)が西岡(同七七〇七票)を破って当選した。昭和三〇年四月の市議会議員選挙は定数三〇人のところに五一人が立候補するという激戦であったが、三四年四月の市議会議員選挙は定数三〇人に立候補者は三四人にすぎなかった。
上辻大治郎は明治三四年(一九〇一)一〇月に彼方(おちかた)村大字板持の農家に生まれ、大正一〇年(一九二一)三月に大阪府立富田林中学校を卒業し、一三年三月に立命館大学専門部法科を卒業したのち、大正一四年一〇月から昭和一八年一月まで大阪税関の監吏および監視としてつとめた。昭和一九年二月には、陸軍歩兵少尉として第八三兵站(へいたん)部隊に配属され中国蘇州に駐屯し、二二年三月に復員した。その後、昭和二五年一一月に富田林市理事となり、二六年八月に富田林市助役に就任した。上辻は二期にわたって尾崎市長のもとで助役をつとめたことから、三四年の市長選挙期間中から尾崎市政の後継者と目されていた。
上辻市長は、五月一二日の当選後最初の市議会において、「財源に乏しい市であるが限られた財源を有効、適切にその使途を選び、百年の計を図るため財源の増加について十分考え、議員みなさんの援助を得て市の発展につくしていきたい」とあいさつした(『広報とんだばやし』昭和34・5・25)。累積する赤字の対処に迫られつつ、いかに市の発展を進めるかが新市長の課題であった。上辻市長は財政の悪化に対処して「消費的経費を極力節減」する一方、「工場誘致と住宅誘致」を「市の飛躍的発展の二大要素」と位置付け、これによって自己財源を確保し、財政の建て直しを図ろうとしたのであった(同35・1・1)。
『富田林市市政だより』昭和三六年七月一五日付第一二二号は、「36年度予算きまる」の記事を掲げ、「消費的経費を大幅に削減 財政の均衡をはかる」と報じた。同じ紙面には「宅地造成、住宅、工場の誘致など積極的な施策で財源確保」と書いたうえで、「財政再建基本方針」と記された。そして、上辻市長は昭和三七年の年頭のあいさつで、次のように述べた(『富田林市市政だより』昭和37・1・10)。
工場といたしましては西板持地区に東和織物株式会社、喜志地区に日本特殊鋼管株式会社、錦織地区に大阪日新毛織株式会社の三大工場をはじめ、川西地区、錦織地区に数工場の誘致に成功し本年中には一部実現の運びになりました。
さらに住宅としては金剛地区に待望の南海公団住宅も本年には実現を見ることになり、また喜志地区の東洋不動産の高級住宅の建設、川西地区の南郊土地の住宅建設、富田林地区の柴田土地建物株式会社の住宅建設、汐の宮地区の大丸土地の住宅建設、さらに川向(かわむかい)、富田地区に大量の府営住宅の建設など本年はそれぞれ実現をみ、皆様にその姿を見ていただける段階になったことはせめてもの喜びとするところであります。
『富田林市市政だより』昭和三八年一月一日付第一三八号は、「生れ変る市の表情」の見出しで、「人口八万の都市へ 着々進む住宅、工場誘致」と記し、「東和織物と平和メリヤス」「東洋不動産旭ケ丘荘園分譲地」「日本特殊管製作所建設用地の造成」「府営住宅」「近畿住宅分譲地(川西地区)」「金剛地区にマンモス住宅」などの写真を二ページにわたって掲載した。それらの写真と共に、同じ紙面に掲げられた「富田林市開発事業宅地造成図」を見ると、富田林市域が大きな変化の時期を迎えていたことがわかる。日本の高度経済成長が急速度で進行しつつあった昭和三〇年代後半に、富田林においても四〇年代における市域の大変貌に向けての動きが始まっていた。