昭和二六年(一九五一)五月の「富田林都市計画概要」は「上水道計画」として、本市の給水区域は「極小範囲でその能力誠に不充分」と記し、「先ず大字毛人谷(えびたに)、新堂等の都市中央部(現在の供給区域)」において「現在の送水管では非常の際には完全なる給水が出来ない状態」にあり「これの改良が先決問題」とし、さらに「西山の溜池を貯水池に改良」して「浄水場を併設」し、「たえず用水の供給に万全を期すべきである」と述べていた。『水道事業年報』(平成一二年度版)によると、昭和二六年度から三〇年度にかけて第一次上水道拡張工事が総工費六八〇〇万円で実施され、従来の給水区域における送水管敷設や導水管の改良とともに、配水池の新設が行われた。『富田林市広報』昭和二七年八月一五日付は、「新たに水源地を増設し、モーターポンプ及鉄管並にヒューム管等も大きなものに取替工事中」だったが「漸(ようや)く完成」と報じ、同二九年一一月三〇日付第四七号は「上水道増補改良事業完成に伴う水道料金の改訂について」の見出しで「沈澱池及び配水池工事を最後に今回その全工程を無事完了」と書いたうえで「改訂料金表」を掲げていた。この料金表によると、計量制で家事専用の場合八立方メートルまで基本料金一三五円で一立方メートル増すごとに一八円、定額制家事専用は五人までの基本料金一三五円で一人増すごとに三五円となっていた。
『富田林市広報』昭和三〇年一月一日付第四八号は、「停電時の水道について」という記事を掲載し、「本市上水道はつい最近まで停電のたび断水」したが「西山の高台に築造した保有水量六六五〇石の配水池」により「約八時間分の貯水」ができたので、八時間以内の停電であれば「平常どおり給水」できると報じた。昭和二九年と三〇年の「富田林市事務報告」によると、二八年末の給水戸数および人口は一八八〇戸八六七八人、二九年末二三六七戸一万〇七三二人、三〇年末二五三八戸一万一六七五人であった。前掲『水道事業年報』によると、第一次拡張事業時の給水区域は富田林・毛人谷・新堂・甲田であった。
第二次上水道拡張工事は、昭和三一年度と三二年度において総工費五五〇〇万円で行われた。『広報とんだばやし』昭和三一年四月二〇日付第六三号は「31年度の市政運営方針」の記事の中で、「目下『全市配水計画』を立案中」との尾崎茂一市長の言葉を記した。そして、同三二年一月一日付第七〇号は「拡張を急ぐ上水道―錦織中野地区へ―」と報じた。この第二次拡張事業によって、給水区域は中野・錦織・川西新家・芝・川向・板持・山中田(やまちゅうだ)・大伴に拡大された。昭和三二年の「富田林市事務報告」には、同年末の給水戸数三一八〇戸給水人口一万五九七二人と記されている。
第三次上水道拡張工事は、昭和三三年度から三七年度において総工費二億三二〇〇万円で行われた。『富田林市市政だより』昭和三五年七月一日付第一一〇号は「水道施設を増設」「給水能力を四万六千人に」「拡張地区の配水管工事も近く着工」と報じ、三七年二月一七日付第一二八号は「水道拡張工事はじまる」「青葉丘、中佐備など七地区」「給水は五月上旬の予定」と記した。そして、同三八年三月一一日付第一四〇号は、「水道給水三十周年を迎える」「給水人口3万2千人に」と報じ、「昭和三三年に着手して五年がかりで進められてきた第三次上水道拡張工事がいよいよ三月に竣工」「現在北大伴、南大伴、西板持と嬉(うれし)地区の配水管工事が完了して家庭への引っ込み工事が行われており同地区の給水開始は四月の予定」と記した。この第三次拡張事業で新たに拡張された給水区域は、廿山・青葉丘・五軒家・須賀・伏山(ふしやま)・佐備・彼方であった。市制が実施された昭和二五年の給水人口は五〇〇〇人であったが、三次にわたる拡張事業によって三八年の初めには給水人口は三万人を超えたのであった。なお三九年から四九年にかけての第四次上水道拡張事業によって給水区域は東条の一部を除く全市となり、四四年から五二年の第五次拡張事業で給水区域は富田林市全域となった。
ちなみに、昭和三二年一一月、富田林市は大阪ガスと契約を結び、翌三三年三月に第一次地区(新堂本郷・富田・新道(しんみち)・富田林・毛人谷・宮林・錦ケ丘・宮甲田・北甲田・南甲田・谷川)のガス施設工事を開始した。この第一次地区にガスが開通したのは、三三年一一月であった。