パーフェクト リバティー教団

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PL教団が富田林市西山に大本部(現大本庁)の建設を決定したのは、昭和二七年(一九五二)四月であった。『PL三十年史』によると、当時教団は、初代教祖御木徳一(みきとくはる)の「永遠の大本部は山を控え水を控えた広袤(こうぼう)三百万坪以上の土地でなければならぬ」との言葉に従って、大本部建設の候補地を探していた。二七年二月、「ひとのみち時代からの第二代教祖の友人」である「元布施市長塩川正三の紹介」で、「近鉄の幹部ならびに富田林市の有力者」が静岡県清水市の教団本部を訪れ、「PL本部を富田林に誘致したい」との申し入れがあり、第二代教祖御木徳近(とくちか)と幹部による現地調査ののち西山の広大な丘陵地が「大本部建設地」と定められた。

 昭和初年に大発展をとげた新宗教のひとのみち教団は、昭和一二年の教団解散後の苦難の時代を経て、戦後新たな出発の時を迎えた。二〇年一一月に、御木徳近は東京で「『永遠の自由』―世界人類永遠の平和と福祉のため―を標榜(ひょうぼう)した思想運動を展開する」との方針を打ち出した。「永遠の自由」はPermanent Libertyと英訳され、その頭文字をとって団体名をPLC(Permanent Liberty Club)とし、PL運動を始める準備が進められた(のちにPerfect Liberty Clubと改称)。二一年九月、御木徳近は、妻の実家があった佐賀県鳥栖(とす)市においてPL教団を立教した。二四年四月には、教団本部は鳥栖市から清水市に移され、信徒の教導と布教の充実に力が注がれ、戦後における発展期を迎えようとしていた。

 昭和二八年三月、富田林市西山のPL教団本部設営地において鍬入れ式が行われ、同教の聖地建設が始まった。二九年五月には、信徒の子女の教育を目的としたPL花嫁寮が「聖地」に開校され、三〇年三月には仮本殿が落成した。同年四月、PL学園高等学校が開校された。三二年にはPL学園高校定時制が開校され、三四年PL学園中学校開校、三九年PL学園小学校開校、四二年PL学園幼稚園開設、四九年PL学園女子短期大学開校と、幼稚園から大学までの教育システムが整えられた。この間の三一年一一月には医療法人宝生会病院(四五年にPL病院と改称)が開設され、翌三二年三月には羽曳野ゴルフ場(現聖丘カントリー倶楽部)が設立された。ゴルフ場の開設には、ゴルフを通しての教えの体得という意味が込められていた。三八年にはPLプールがつくられ、その後遊戯施設も整えられて四二年にはPLランドが開場した(平成三年閉園)。

 ところで、「聖地」建設が始まった昭和二八年、初代教祖御木徳一の郷里松山市において、初代教祖一五年祭が挙行され、この時初めて盛大に花火が打ち上げられた。翌二九年からは、富田林の「聖地」において教祖祭が行われるようになった。教祖祭には御木徳一の遺言に従って、毎年見事な花火大会が催され、大阪の夏の夜の風物詩として親しまれている。この花火には世界平和への祈りが込められ、「人生は芸術である」という同教の理念を意欲的に表現しているという意味で、「花火芸術」とよばれている。四四年一一月には、建築中の彫刻の塔「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」(高さ一八〇メートル)の定礎式が行われ、翌四五年八月に落成式が挙行された。なお、昭和四九年一二月、PL教団はパーフェクト リバティー教団(略称PL)と改称した。