労働組合の結成

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昭和二〇年(一九四五)一〇月一一日、連合国軍最高司令官マッカーサーは、就任直後の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相に対し、「人権確保に関する五大改革」を口頭で指示するとともに、憲法の改正を示唆した。その中の一つに「労働組合の結成奨励」が挙げられ、これに基づいて、二一年三月一日、労働組合法が施行された。この法律は、労働組合の結成、団体交渉、争議行為などの労働者の権利を認めたもので、制定後は、労働組合の組織化が爆発的に進んだ。

 戦後の労働組合は、ほとんどが事業所や会社ごとに組織された企業別組合であった。この方式は、労働者を急速に組織するためにはきわめて有効であり、戦後日本の労働組合が爆発的に組織された理由の一つでもあった。労働組合の結成過程は、戦時中の産業(労務)報国会の組織を利用したものが多くみられたが、なかには戦前の運動の流れを受け継いだ旧闘士たちが再建に乗り出したものもあった。

 大阪府労働部労政課発行『労働組合名簿』の昭和二二年版によると、河内長野労政事務所管内における労働組合の結成状況は次のとおりであった。

    組合名            所在地        代表者名  加盟上級団体名 組合員数

富士車輌(株)労組      南河内郡狭山村池尻三八三    原一平   総同盟     七九九

日本電気産業労組大阪長野分会 南河内郡長野町四二三ノ一    新川盛彦  日本電産労組  二四九

全逓従組河内送信所支部    南河内郡野田村北野田八四〇   今井進   全逓従組     三五

大阪貨物自動車労組南河内支部 南河内郡富田林町毛人谷五二六  溝端義雄  大阪貨物自動車労組連合会 一六八

東芝富田林工場労組      南河内郡富田林町毛人谷三八〇  鈴木正           一六一

三日市鋼管労組        南河内郡三日市村三日市一〇三  岡本大作  総同盟     一四八

大阪府土建労働組合長野支部  南河内郡三日市村字上田           総同盟     二五五

南河内郡青年学校教員組合   南河内郡長野町西代       柴野恒夫  全国教職員組合 一六三

吉年可鍛鋳鉄労組       南河内郡長野町字長野一七〇   福本正一          二七一

大平興業(株)河南工場労組  南河内郡狭山村大字半田二〇九一 片岡敏郎          一四七

国立大阪病院職員組合     南河内郡長野町木戸       白井嘉門  全国立病院職組 四一九

金剛ベアリング(株)労組   南河内郡長野町木戸一七七    酒谷真一           五九

全逓従組南河内西部特定局支部 南河内郡長野町長野       中川伊三郎 全逓従組    一七五

 これによると、南河内において、青年学校の教員組合が、昭和二二年に存在していたことがわかる。青年学校は、明治二六年(一八九三)以来の実業補習学校と大正一五年(一九二六)四月創設の青年訓練所とを統一して、昭和一〇年四月、青年学校令に基づいて全国市町村に設立されたもので、小学校に付設され、校名も小学校名を冠した。また、公立青年学校のほかに、この義務年齢にある青年が多数就業する事業所に私立青年学校が設立された。その目的は、「男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛練シ徳性ヲ涵養(かんよう)スルト共ニ、職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ、以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」(第一条)こととされたが、昭和一二年の日中戦争開始以後は、男子に対する徴兵制予備教育の性格を強め、一四年には、尋常小学校修了後七年間の義務制(男子)となった。しかし、太平洋戦争勃発後、戦局の悪化のため、青少年の軍需生産部門や軍隊などへの動員が急増し、青年学校は、その機能を正常に発揮できなくなっていった。

 終戦により、青年学校の存在理由は失われた。昭和二二年という時期に、組合員一六三人を擁する青年学校教員組合が南河内郡に存在したのは、教育の民主化が進む中、その存続があやぶまれた青年学校に関係する教員たちが緊急に労働組合を組織したためと思われる。同年六月の大阪教職員組合(大教組)結成時には、副執行委員長五人の中に青年学校教組の代表が名を連ねた。しかし、青年学校は、二二年四月、新しい学校教育法の施行にともない廃止された。

 昭和二三年版の『労働組合名簿』では、古市事務所管内における南河内地域の労働組合数は三三となり、組合員数は六二四六と、その数は二倍以上に増えた。その中で、富田林に事務所が所在するものは、次の四組合であった。

    組合名            所在地        代表者名  加盟上級団体名 組合員数

大阪貨物自動車労組南河内支部 南河内郡富田林町毛人谷五二六  山際栄丸  全国貨物自動車労組 一七六

東芝富田林工場労組      南河内郡富田林町毛人谷三八〇  田中茂   東芝労組連合会 一三二

全国財務労組富田林支部    南河内郡富田林町毛人谷     斎岡徳生  全財労      五九

富田林町職組         南河内郡富田林町毛人谷二三   米田時文           五六

 大阪貨物自動車労組南河内支部の代表者山際栄丸は、昭和一四年師範学校卒業後小学校教員となったが、一六年に入隊し、満州、南九州で兵役をつとめた。終戦で復員した山際は、戦後の荒廃した物資不足の日本の中で、物を動かすという仕事の重要性を痛感して南河内運送会社に就職し、運輸労働者として働く中で労働運動に積極的に参加したのである。二六年に市議会議員に当選し、翌年には教育委員長に就任したが、市議三期目の途中で退職し、三五年七月から三八年八月まで助役をつとめた。その後は、議員活動から遠ざかっていたが、学生時代からの友人である内田次郎の市長選出馬にあたって、内田革新市政実現のために尽力し、五四年から市議を三期つとめた。

 前述の組合名簿では、このほかにも、大阪教職員組合南河内支部(昭和二二年九月三〇日結成)の名がみられる。代表者松田太郎、組合事務所は南河内郡長野町大字西代(現河内長野市)の長野小学校に置かれ、一二〇六人の組合員を擁していたことが記されている。

 その後の労働組合結成状況は、『労働組合名簿』昭和二四年版によると、組合数四九、組合員数六一九一とさらに増加し、南河内においても、数年間で急速に労働組合が組織されていったことがわかる。しかし、昭和二五年版では、組合数四五、組合員数五〇二三、昭和二六年版では、組合数四一、組合員数五〇八三と、若干の減少を示している。