昭和一七年(一九四二)八月、東京芝浦電気株式会社(東芝)は、神奈川県川崎市で特殊合金工具の生産を行っていた子会社である特金工具製作所を吸収合併した。それは軍による増産要請に対応するためのものであった。さらに、西日本における特殊合金部門の生産拠点の必要性から、河内紡績(南河内郡富田林町)を買収し、一八年一月、東芝総合研究所電気陶磁器研究所開発工業部富田林工場を設立した。同年一〇月に軍需会社法が公布されると、翌一九年五月、富田林工場は軍需工場の指定を受けた。そして、二〇年四月一五日深夜から翌一六日未明にかけての神奈川県川崎市街地に対する大量焼夷弾攻撃で川崎工場が大きな被害を受け操業続行が不可能となったため、その後の生産は富田林工場が主軸となった。
終戦後、戦時下に組織されていた産業報国会は解散し、全国的に労働組合結成の気運が盛り上がる中、東芝富田林工場においても、二一年二月、東芝富田林工場従業員組合(東芝労連加盟)が結成された(東芝タンガロイ労働組合『組合結成四〇周年記念誌』)。
昭和二一年の夏から秋にかけて、労働組合の全国組織が相次いで結成された。八月一日の日本労働組合総同盟(総同盟)の結成に続き、八月一九日に、全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成され、一〇月二五日には、総同盟、産別会議のいずれにも加入していない組合により日本労働組合会議(日労会議)が結成された。そして、戦後の悪性インフレの中、人員整理による首切り絶対反対・最低賃金制(最低生活の保障)を掲げた多くの労働組合が、全国で激しい闘争を繰り広げた。
昭和二一年一〇月、産別会議傘下の労働組合が、首切り絶対反対と完全雇用の実現、生産復興は人民の手で、産業別統一団体協約の締結、労働関係調整法(労調法)撤回と罷業権の確立、吉田首切り内閣即時打倒の五目標を掲げ、いっせいに共同闘争を行った。このいわゆる「一〇月闘争」は、争議参加人員五六万人、スト参加者は三二万人を数え、大半の労働組合が、首切り反対、大幅賃上げに成功した。東芝労組連合会(東芝労連)も、首切り反対、生活資金の確保、経営の民主化を要求し、一〇月一日からストライキに突入、五五日間にわたる闘いの結果、ついに、基本的な要求を貫徹した。このストライキには、二月に結成したばかりの富田林工場従業員組合も参加したが、一一月五日、スト半ばで「行き過ぎ」と判断し、途中で脱退した。
昭和二二年、GHQの民主化政策の一つとして過度経済力集中排除法が公布され、東芝はそれに基づく再建計画で、富田林工場を含む二八工場を処分工場に指定した。しかし、二一年に結成されていた富田林工場従業員組合は、労働条件の低下は絶対反対という立場から現状維持を第一の主張とし、処分を避けるため、東芝から分離独立した第二会社として発足することになった。再建整備にむけ、組合と工場との交渉が続けられ、二五年二月二一日、タンガロイ工業株式会社が設立された。それと同時に東芝富田林工場従業員組合は、タンガロイ工業労働組合と改名し、東芝労連を脱退した。