終戦後、戦後改革の一つとして労働組合の結成が爆発的に進んだ。そして、自治体労働者も、全国的に次々と組織されていった。大阪府内の衛星都市においても昭和二一年(一九四六)六月、布施市職員組合をはじめとする府内八市職で、衛星都市職員組合連合会(衛都連)が結成された。そのような中、富田林町職員の間にも、組合結成の気運が盛り上がり、二二年一二月八日、富田林町職員組合が、四五人の参加で誕生した。
昭和二五年四月に市制が施行されると、その年の九月の組合大会で、富田林町職員組合は富田林市職員組合と改称された。また、その二か月前には、衛都連に加盟することが決定されていた。しかし、結成当初は、労働組合というよりも、親睦会的なものであり、交渉といっても、一時金(夏季年末手当)の時に組合幹部が市長にお願いして少しでも多くいただく、といったようなものだった。また、その交渉報告は、「市長は、みんながよく働いてくれるので、今度のボーナスはいつもより多く出してくれることになった」と、職員係の代弁で職員に知らせるといったものだった。基本給についても、初任給は採用する時の条件で異なり、昇給についても個人ごとに大きな格差があった。
富田林市職員組合の活動が活発化したのは、昭和三〇年ごろからであった。前年の二九年に、個人格差是正の闘いで、衛都連の茨木市職が成功したことが、富田林市職においても賃金問題に取り組むきっかけとなった。
昭和三〇年代は、日本経済が高度成長期に入り、産業がめざましく発展した時期であった。その影響は富田林市にも及び、大阪府の南部、金剛山地のふもとに位置する農村地域にも徐々に宅地化が広がっていった。昭和三〇年の国勢調査では七一〇二世帯、三万四四四八人(東条村を含む)だった人口が、一〇年後の四〇年には一万一二七二世帯、四万七九八五人へと、世帯数六割・人口四割増を示した。
昭和三五年には、日米安全保障条約の改定をめぐって、国民世論が真っ二つに分かれて対立し、前年来の三井三池労組の大争議や一〇月一二日の日本社会党委員長の浅沼稲次郎刺殺などとあいまって、騒然たる政治情勢が生じた。富田林市でも労働組合員などによる岸信介内閣打倒、安保改定阻止の行動がみられた。これより先、三三年から翌三四年にかけて、教員の勤務評定問題が全国の教育界をゆるがせた。大阪教職員組合富田林支部(南河内教組富田林支部)や大阪府立高等学校教職員組合富田林高校分会、河南高校分会などでも、勤務評定に反対する行動が粘り強く展開された。また、三二年四月には、富田林市職員組合を中心に、南河内教組富田林支部、近畿日本鉄道労働組合(近鉄労組)などによって、富田林地区労働組合連合協議会(地区労)が発足しており、共闘態勢もできていた。
ちょうどこのころ、電気洗濯機が徐々に普及しはじめていた。続いて、電気冷蔵庫やテレビ、電気掃除機、電気炊飯器が一般家庭に入ってきて、日本の家庭は大きく変わった。家庭電化製品の普及に象徴される消費革命の開始は、日本経済が高度成長期を迎えたことを意味していた。そして、高度経済成長による社会構造の変化が、人々の考え方や行動に変化をもたらした。古くからの地縁や血縁で結ばれていた感のあった自治体職員の意識や構成にも変化が起こり、理事者と職員の関係が近代的労使関係に移行しはじめた。
昭和三二年、富田林市職は、職階制給与体系打破、国公原資プラスアルファの闘いにおいて、衛都連本部の指導のもと、組合としては初めての集団交渉、全員廊下座り込みの戦術を組織し、国公原資以外に一律三〇〇円を勝ち取った。
衛都連の結成は二一年だったが、一〇年余の間、それほど目立った闘争を行う組合ではなかった。それが三〇年代の半ばに至って、次々と大幅な賃上げを獲得して、社会的に注目をあびる存在となった。衛星都市の自治体職員にうっ積していた低給与への不満が爆発し、それを衛都連による強力な戦術指導で理事者側にぶつけて、たちまちにして給与水準を上昇させるとともに、市民生活に直接かかわる自治体行政のあり方にも問題を投げかける組合へと変貌を遂げたのである。
富田林市職員組合において、組合活動発展の原動力となったのは、昭和二八年に結成された青年婦人部の若い労働者たちであった。大阪府内のあちこちで行われていた衛都連各単組の闘いに支援に行った青婦部活動家が、組織の力による賃上げの闘いを体験する中で、「俺たちもやればできるんだ」という意識を職場の中に広げていったのである。「純粋なる組合運動の認識向上と組合組織の強化は、まず青年婦人の団結から」と主張する青婦部活動家たちは、錬成大会や各種サークル活動なども積極的に行い、その若さによる情熱とエネルギーが、組合活動を活発化させていった。