昭和三一年(一九五六)の第二四回国会で、新教育委員会法案(教育委員の公選廃止、任命制)が成立したことによって、戦後教育の制度と機構は大きく変わり、教育の中央集権化が進んだ。任命制となった大阪府教育委員会は、三一年九月二七日、府議会に学校管理規則および準則案を提出した。この「学校管理規則案」は、文部省指導による全国都道府県教育長協議会の学校管理規則案とほぼ同様のもので、日本教職員組合(日教組)は、これを「教職員の権利を侵害し、学校運営を阻害する」ものとして、「民主的規則の制定をかちとる」ための闘争を展開した。しかし、闘争の時期がそろわないなどの理由で、十分な統一闘争が組織されないまま、七月には、「約半数の二八県」で強行制定された。
大教組との交渉により、「第一次試案を撤回、再検討」していた大阪府教委は、三二年五月一〇日、第一次試案を若干修正した「最終案」を提出した。大教組は、この最終案に対しても、撤回を求めたが、府教委側が「いっさい修正しない」と言明したため、六月二二日、二三日に、宿日直拒否闘争を行った。しかし、七月二日、府教委はこうした大教組の抵抗にもかかわらず、抜き打ちにこれを制定した。
同年一二月、富田林、河内長野両市と南河内郡一一町村の教育委員会は、「管理規則」を府教委が示したとおりに、年内にいっせいに公布・施行するとし、大教組南河内支部へ通知した。南河内支部はすでに、準則六項目の修正を教育委員会に申し入れていたが、教委側は「見解の違いで一項目も修正することはない」とした。それに対し、組合側は、あくまでも修正を要求する姿勢をとり、富田林においては「管理規則」の年内公布・施行を阻止した。
その他においても、大教組は、対府教委交渉、府内各市町村教委(地教委)との交渉を行い、府内各地でのねばり強いたたかいの結果、衛星都市教育長会議が「準則通り、十二月二六日までに制定」を申し合わせたにもかかわらず、富田林を含む一五市五郡で地教委を追い込み、「管理規則」の年内制定を不可能にさせた。
翌三三年一月六日朝、富田林市教委は、市役所において、教組と話し合いを持ったが、組合側はあくまでも六項目の修正意見を主張した。しかし、市教委側は、六項目の修正点は運営の面で実施できると準則を主張し、もの別れとなった。同日午後、「管理規則」が、富田林においても公布された。