教員の勤務評定(勤評)は、昭和三一年(一九五六)に愛媛県が赤字対策として教員の昇給を制限するために実施したのがきっかけとなり、この年と翌三二年の愛媛県教組の勤評反対闘争は全国的な注目をあびた。三二年一〇月の全国都道府県教育長協議会総会で松永文相が勤評実施を要望し、同月の全国都道府県教育委員長協議会総会が勤評実施を申し合わせるに至って、日教組は、組織を挙げて反対闘争を行うことになり、一二月の臨時大会で勤評反対の非常事態宣言を発した。
三三年二月一八日、全国教育長協議会は秋までに勤評実施を申し合わせた。これにより、日教組の反対運動も本格化し、職場大会・全員集会の統一行動を全国的に繰り返しはじめた。四月二三日、東京都教委が勤評実施規則・評定書を決定したので、同日、都教組は結成以来最初の一〇割休暇を行った。以後、各府県での勤評実施規則制定にともない、五月七日福岡、六月五日和歌山、二六日高知で、それぞれの県教組が一〇割休暇のほか、各府県で二~五割休暇戦術を実施した。なかでも、和歌山と高知の両県における反対闘争は激烈をきわめ、勤評実施をついに見送った京都府の動向もあいまって、地理的に近い大阪府の教員組合の闘争に強い影響を与えた。
大教組は、昭和三三年二月八日、勤評反対のための休暇闘争の是非を全組合員の投票に問うたところ、七四%が休暇闘争を支持した。この組合員の盛り上がりを背景に、四月二六日、大教組は扇町プールで二万人を集めた全員集会を開き、デモ行進を行って気勢を上げた。
富田林市においても、勤務評定についての関心は、少しずつ高まっていた。六月四日の市議会では、西口佐三議員から、勤務評定に関する件を調査・研究する特別委員会の設置が提案されたが、結局、文教厚生委員会において研究するということとなった。六月一一日、文教厚生委員会は、市の教育委員会と懇談を持ち、教育委員会側から、「府に命じられたものは、実施せざるを得ない」との見解が示された。一方、六月一九日、富田林市立第一中学校作法室において、文教厚生委員会と南教組富田林支部の教職員との話し合いも持たれたが、組合側は、「戦後、折角めざめて来た民主教育、平和教育は勤務評定実施によって根本的にくつがえされ、今後の現場における教職員の反目と悲壮な競争意識が現場を暗くし、全体的な教育の効果を増すことにはならない」として、あくまでも反対の姿勢を示した。
その後、六月二五日に行われた、勤評反対民主教育を守る会の「弾圧反対・勤評阻止」の全国統一行動で、大教組は和歌山支援のため、二割休暇を実施したが、富田林においては、PTAの理解が得られないとの理由で見送りとなった。七月六日、市公会堂と富田林市立第二中学校で富田林市内の小中学校の教職員とPTAとの初の勤評に関する懇談会が開かれ、当日はPTAも多数参加し、「勤務評定には反対、しかし先生の闘争戦術は各家庭に十分徹底してからにしてもらいたい」と、少しずつ保護者の理解も広がっていった。