原水爆禁止富田林大会

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第五福竜丸の被爆をきっかけに、全国各地で、原水爆禁止の署名運動が始まった。広島、長崎に続き、三度目の原水爆の犠牲となった国民の恐怖と怒りは、原水禁運動を加速させ、その署名数は、三〇〇〇万人を超えた。

 そのような中、昭和三〇年(一九五五)、八月六日から三日間、広島で最初の原水爆禁止世界大会が開かれた。前年来の日本の原水爆禁止署名運動と世界のウィーンアピール(原子戦争準備に反対する訴え)の運動が結合したところに、この大会の大きな意義があった。自然発生的な日本の原水禁運動が、今や世界の平和運動と連帯し、その中心的役割を担うに至った。

 原爆マグロの被害を直接受けた富田林市においても、昭和二九年八月八日には原水協が結成され、翌年の第一回原水爆禁止世界大会には、杉本宗勝、森田佐平、西口佐三の三議員が市議会の代表として派遣された。

 そして、昭和三二年八月一七日、富田林市で初めての原水爆禁止大会が開催された。市議、労組、消防団、婦人会、清風会(未亡人会)など各種団体、一般市民約七〇〇人が集まり、市公会堂で行われた。大会は、大会副委員長上辻大治郎(助役)の開会の辞で始まり、大会委員長尾崎茂一(市長)のあいさつ、議長団に市議会議長杉本宗勝、婦人会長寺田菊代、大教組代表松本肇の三人を選出、原爆犠牲者に一分間の黙祷を捧げて冥福を祈り、地元選出の久保田鶴松代議士、赤間文三知事ら各方面からのメッセージが贈られた。また、府原爆被災者の会の代表者からは体験談が話された。そして、この大会の提案者でもあり、この年の原水爆禁止世界大会の参加者でもある芦田和一市議からの報告があり、「世界が真に平和を認識し、これを追求する決意をなす日まで原水爆禁止、戦争阻止の運動をより深く、より強く育てあげてゆくことを誓う」との大会宣言を決議した。市職員のコーラス、組曲「原爆を許すまじ」で気分は最高潮に達し、全員の大合唱のあと、大会は幕を閉じた。閉会後は、プラカードを立て、市長、助役を先頭に富田林高校ブラスバンド部の演奏とともに、「原水爆禁止汗の市中行進」を行った。また、午後七時からは、石川祭の会場で芦田市議による原水爆禁止世界大会の報告のあと、映画「原爆の図」ならびに「生きていてよかった」が上映された。

写真139 初の原水爆禁止富田林大会 (昭和32年8月17日、『広報とんだばやし』昭和32年9月3日付から転載)

 原水爆禁止富田林大会実行委員会は、この日に決議した大会宣言文を、英、米、ソ各大使、総理大臣、外務大臣に送り回答を求めた。

    宣言

原爆被災十二周年を迎えたわれわれは、多くの原爆死没者の諸霊に謹んで追悼の意を捧げ御冥福を祈ると共に現在なお無制限に蓄積されつつある核兵器によって、人類の明日を恐るべき破壊でおびやかしている国々に対し、原水爆の製造、実験禁止をさけぶものである。実験競争による死の灰の危険、放射能の危険は日ごとに人類の生命をむしばんでいる。科学はこの冷厳なる事実をあきらかにした。われわれはこれ以上実験を許すことはできない。人類が自滅の道を捨て繁栄の道につくため、われわれは原水爆保有国米・英・ソ三国は速やかに実験禁止の協定の締結を世界諸国民の前に提示することを強く要望する。われわれは犠牲者の霊に応えるために世界が真に平和を認識しこれを追求する決意をなす日まで原水爆禁止、戦争阻止の運動をより深くより強く育てあげてゆくことを誓うものである。

右宣言する。

  一九五七年八月一七日

                                    原水爆禁止富田林大会