市長の交代

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昭和三八年(一九六三)四月、戦後五回目の統一地方選挙が行われた。富田林市長を選ぶ四月三〇日の選挙には、西岡実(無所属)と現職の上辻大治郎(無所属)の二人が立候補し、西岡が一万〇九五二票を得て、挑戦すること四度目にして市長の座についた。上辻の得票は九三八二票であった。西岡は、昭和二六年四月と三〇年四月の市長選挙では尾崎茂一と争い、三四年四月には上辻大治郎と争い、いずれも次点で敗れている。したがって、最初の立候補から一二年の歳月を経て、ようやく宿願を果たしたのである。

 西岡実は、四年後の昭和四二年四月二八日の市長選挙では無投票で再選されたが、その三か月後の七月一五日に膵臓(すいぞう)がんと尿毒症のため死去した。そこで八月二七日、市長死亡にともなう選挙が実施され、西岡実の子息である西岡潔(無所属)が一万〇〇五〇票を得て当選した。市議を辞職して対立候補となった小山義一(無所属)は九六一三票を獲得し、佐竹卓一(日本共産党)は一二二二票であった。

 ところが、この西岡潔市長は選挙違反問題が絡んで、就任二年三か月後の昭和四四年一一月一三日、いったん市長を辞職した。そして、一二月七日の市長選挙に再出馬して再選された。得票数は一万二四二八票であった。対立候補小山義一(無所属)は一万〇七八二票、岡崎良夫(日本共産党)は二八二二票、岩根一正(無所属)は二六〇七票であった。この時の西岡市長は任期中途でいったん辞職し、その辞職にともなう選挙で当選したのであるから、任期満了日は、前回四二年八月選挙の時と同じく四六年八月二六日となる。そこで四六年八月八日に市長選挙が行われ、西岡潔が三選された。西岡は一万五一七三票、岩根一正(無所属)は五七四九票、岡崎良夫(日本共産党)は三九七八票であった。

 こうして、昭和三八年から五〇年にかけて、富田林市の市長は西岡実・潔の父子がつとめた。父の西岡実は市制実施最初の市長選挙以来、立候補すること四回、苦節一二年を経て富田林市長の座についたが、再選直後に入院し、死去した。そのあとを継いだ長男の西岡潔は三たび当選したが、昭和五〇年八月一〇日の選挙で落選し、西岡父子市長の時代が終わった。この時、当選した内田次郎は二万一五三〇票、西岡潔は一万五〇〇五票であった。以後、二八年に及ぶ内田市政の時代となる。

 西岡実・潔が市政を担当した昭和三八年から五〇年までの一二年間は、日本経済が高度成長の真っ盛りを経て、かげりが見えはじめる時期であり、地方自治行政が新たな試練に立たされた時代であった。西岡父子二代の市長は、この試練によく立ち向かい、新しいまちづくりに励んだ。