西岡実は明治三九年(一九〇六)一月九日、南河内郡平尾村小平尾(現美原町)の永田家に生まれ、西岡家を継いだ。本籍は千早赤阪村。戦時中に平尾村長をつとめ、戦後三期にわたって美原町長に選ばれた永田善雄は、西岡実の実兄である。
西岡実は関西大学専門部法科を修了後、実業に従事し、大阪共栄無尽会社専務取締役などをつとめ、昭和二〇年(一九四五)三月には藤井寺町(現藤井寺市)に菊水学園を創設し、理事長に就任した。大阪商工実務学校、柏原精器工業学校、大阪工学院の三校を合併して、菊水工業学校を設置したのが菊水学園である。菊水工業学校は藤井寺技芸女学校(昭和一六年開校、一八年廃校)の校舎を譲り受けて開校した。戦後の二一年四月、菊水中学校と改称し、新制高校発足の二三年四月、菊水学園高等学校(中学校を併設)となったが、二六年廃校となり、教員の一部と生徒は大阪市生野区の興国商業高等学校に移った。戦争末期から戦後初期にかけての中等教育機関の複雑な変遷の一例である。
西岡潔は昭和四年六月五日、現在の富田林市本町に生まれ、府立富田林中学校を経て、二五年一〇月、大阪市立都島工業専門学校(現大阪市立大学工学部)を卒業した。卒業とともに菊水学園高等学校教諭、同学園理事に就任した。同校廃校後の三一年七月大映興業株式会社に入社し、主として九州各地で大映直営館の経営を手がけた。大阪に転勤後は梅田大映の支配人をつとめた。
当時の新聞のインタビユー記事によると、西岡潔は不況の映画界で苦労した経験を生かし、身についた企業手腕を自治体行政に生かそうと思ったようである。そして、父からの世襲市政になるとの批判に対しては「オヤジは、あとを継げなんて、死ぬまで一言もいわなかった。後援者にかつぎ出されたのでもない。豊かな町づくりのため、あれほど情熱を燃やしていたオヤジの遺志を、この若さで実現したいんだ。〝世襲〟なんてとんでもない」と激しく反発した(『朝日新聞』昭和42・8・24)。そして、この記事の中で「いかにも若く、せいかんだ」と評されている。三八歳の西岡潔には若さへの期待が寄せられたのであった。以後八年間、父のあとを継いで市政を担当し、父子二代一二年間の西岡時代を創出した。