国政選挙の動向

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富田林に市制が実施された昭和二五年(一九五〇)四月から四七年までの二二年間に、国政レベルの選挙としては、衆議院議員総選挙が九回、参議院議員通常選挙が八回、同大阪地方区補欠選挙が三回執行された。そのうち、三三年から四七年までの衆議院議員総選挙における富田林市の有権者の投票状況は、表93のとおりであった。

表93 富田林市における衆議院議員総選挙の党派別得票数と得票率(昭和33~47年)
昭和33年5月22日 昭和35年11月20日 昭和38年11月21日 昭和42年1月29日 昭和44年12月27日 昭和47年12月10日
自由民主党 ※9,685 66.2 ※8,916 59.0 ※9,461 52.0 ※11,007 46.2 ※11,593 41.2 ※14,374 38.8
日本社会党 ※3,414 23.3 ※3,261 21.6 ※3,747 20.6 ※5,343 22.4 ※6,141 21.8 5,169 14.0
日本共産党 1,527 10.4 1,383 9.1 1,356 7.5 1,360 5.7 2,643 9.4 7,079 19.1
民社党 1,555 10.3 3,603 19.8 2,480 10.4 3,270 11.6 4,719 12.8
公明党 3,625 15.2 4,509 16.0 5,659 15.3
諸派・無所属 11 0.1
14,626 15,115 18,178 23,815 28,156 37,000

注)富田林市選挙管理委員会資料から作成。※は2人が立候補。

 昭和三〇年一〇月の左右両派社会党の統一、一一月の保守合同による自由民主党の結成をきっかけにして、日本の政界は自民・社会の二大政党対立時代を迎えた。富田林市が属する大阪府第四区(定数四人、旧中河内郡と旧南河内郡の区域)は、もともと四議席を保革で分け合う結果となりがちであったが、とくに昭和三三年五月と三五年一一月の総選挙では、自民党と社会党がそれぞれ二人の候補を立て、いずれも当選するという圧倒的な強さを見せた。

 表93による党派別得票数をみると、同じく二人立候補でありながら、富田林市では自民党の得票がきわだって多い。これは河南町中村出身の古川丈吉が南河内一帯を強固な地盤としていて、富田林市でも大量に票を集めたことによる。そのかわり、布施市(現東大阪市)や八尾市などの中河内地域では大倉三郎、次いで塩川正十郎が票を集めた。社会党は、戦前からの無産運動の闘士である杉山元治郎と久保田鶴松が議席を占めた。

 ところが、昭和三〇年代後半から四〇年代を迎えると、自民党と社会党の退潮がみられるようになり、それとともに多党化現象が起こった。民社党(民主社会党)・公明党・共産党が進出するようになったのである。まず昭和三八年一一月の総選挙では、民社党の栗山礼行が当選し、社会党の長老杉山元治郎が落選した。次いで四二年一月の総選挙で、第四区でトップ当選したのは公明党の矢野絢也であった。複数立候補の社会党は、辛うじて久保田だけが最下位当選するにとどまった。四四年一二月の総選挙は、二人立候補の社会党は全滅し、自民二、公明一、民社一が当選した。四七年一二月の総選挙では、当選者は自民一(塩川正十郎)、社会一(久保田鶴松)、公明一(矢野絢也)、共産一(三谷秀治)という結果になった。この時、古川丈吉は富田林・南河内一帯でずば抜けた得票数でありながら、四区全体では票が少なく落選した。以後、平成二年(一九九〇)二月の総選挙まで、党公認の候補者の交代はありながらも、四議席を四政党が分け合うという状況が続いた。

 多党化現象が示すように、市民の意識と要求は多様化し、旧来の保守と革新の色分けだけでは把握できない時代となった。急速な産業発展と消費水準の向上は、一方で全国各地の都市化現象をもたらした。

 近鉄電車の阿部野橋から急行で約三〇分、一六世紀後半に寺内町として開かれ、江戸時代は在郷町として発展した富田林の町を中心にして、周辺部に豊かな田園が広がっているというのが富田林市とその周辺のイメージであった。その古い町と農村が開発の波をかぶり、大きく変貌した。国勢調査による昭和三五年の富田林市人口は七六九五世帯、三万六二六二人、それが四〇年には一万一二七二世帯、四万七九八五人、四五年には一万九九〇〇世帯、七万五七四九人、五〇年には二万四四六八世帯、九万一三九三人と増え続けた。人口が増えただけでなく、市民の権利意識や教育水準も目立って向上した。市民の生活と福祉や教育などに関する要求が噴出するようになった。