昭和四二年(一九六七)四月の選挙で再選された西岡実は、五月一日に初登庁して意欲満々、二期目の市政にのぞむ構えであったが、五月一六日から府立成人病センターに入院し、七月一五日に死去した。翌七月一六日の『毎日新聞』は、「これからという時に 西岡富田林市長の死去 意欲で赤字解消 つぎつぎ積極策打出す」との見出しを掲げて、次のように報じた。現職市長の死を悼む文章の中に、当時の市政の状況や問題点が記述されている。
「病に倒れて残念だ」―府立成人病センターでの二カ月にわたった療養生活のなかで、口ぐせのようにいっていた西岡実富田林市長がなくなった。五月十六日、ジン炎の治療のため、府立成人病センターに入院、病状は一進一退を続けていたが、十五日午後二時二十七分死去した。スイ臓ガンに尿毒症を併発したのが命とりだったという。十日に定例市会が無事終わり、その報告かたがた飯山章夫助役が十一日に見舞ったとき、今年度予算が決まったことを西岡市長は「よかったなあ」と涙をながして喜んだ。そしてその言葉を最後に声が出なくなってしまった。はりつめていた気持がここでやわらいで、精神力で持ちこたえていた肉体がくずれていったのだ。
富田林市は、いま飛躍の時を迎えている。三十八年五月、西岡さんが市長に初当選したとき、同市は累積赤字一億二千八百万円余をかかえ、市政は混乱状態といってよいほどだった。そのなかへ飛込んだ西岡さんは「秩序ある、不正なき市政」を公約に勇敢に戦った。その努力はつぎつぎに実をむすんでいた。赤字は昨年度末で七千二百七十万円にへり、財政再建計画を一年短縮して四十四年度末には赤字ゼロにできる予定だ。財政の好転に加えて、市役所内部にも新しい秩序がつくられ、みんなやる気を出してきた。こうした基礎がためを終わって迎えたのがこの四月の統一地方選挙。実績をバックに西岡さんは無投票で再選された。そして当選の抱負を「これからの四年間は、赤字再建団体のため消極的にならざるをえなかった市政を前向きの積極的な姿勢へと変えてゆきたい」とうれしそうに語ったものだ。
確かに、これからの四年間に富田林市は大きく変わる。府精薄者(知的障害者)コロニーは本年末に着工して四十四年には開所の予定だし、中小企業団地もこの秋には造成にとりかかる。住宅公団金剛団地は年末から入居がはじまり、四十五年ごろには約七千戸、三万人のマンモス団地となる計画だ。
画期的な南河内二市町一村共同のゴミ焼却炉も今秋着工の運びになっている。そして念願の市民会館と市役所新庁舎の建設も、任期中には着手の予定にしていた。楽しみにしていた完成を見ることなく、死んでしまったのだ。
「あと一期だけでも勤めてほしかった」―市民のほとんどはそう思っているにちがいない。惜しい人を失ってしまった。