市長の辞職問題

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昭和四二年(一九六七)八月の選挙で当選した西岡潔市長は、昭和ひとけた生まれの三八歳であった。富田林市が歴史の古い町であるだけに、市民の間には、青年市長の若さへの期待が強かった。ところが、当選直後の九月一二日、西岡派の選挙運動員三人が公職選挙法違反の疑いで逮捕された。次いで二二日、西岡派の出納責任者をつとめた市議が逮捕された。この市議の公職選挙法違反の裁判が重ねられ、二年後の昭和四四年一〇月二八日に最高裁で上告棄却が決まり、一、二審どおり禁固六月、執行猶予三年が確定した。市長派の出納責任者の有罪が確定したのである。このことは、公選法の連座制規定で市長の失格へとつながる重大な問題であった。当時の公選法では、失格になるのは大阪高等検察庁が同市長の当選無効訴訟を大阪高裁に起こし、これが確定してからである。失格になると、市長は市長職を失うが、当時は次の選挙へ出馬することを禁止していなかった。連座制規定で失格しても、再出馬は法的に認められていたのである。

 昭和四四年一一月一日、西岡潔市長は「一身上の都合で市長を辞任したい」と泉井藤造市議会議長に辞表を提出した。このように辞意を明らかにしながら、その一方で、西岡市長は「再び市長選に立候補して市民の信を問いたい」との態度を表明した。たしかに、市長職をやめることで前回の選挙の責任は法的にはなくなり、公民権も停止されていないので、再出馬も本人の意思次第である。しかし、「失格でやめさせられてからよりも、辞表を出した方が次の選挙に有利だ」との計算があるとしたら、前回選挙でおかした責任を道義的にも感じていないことになるとの批判が続出した。

 一一月一二日、臨時市議会本会議において、西岡市長の「一身上の都合により一一月一三日をもって退職したい」との退職申立てが同意を得られた。この本会議で西岡は「一身上の都合とはなにか」との質問に対して、「一身上の都合というのは、選挙の出納責任者がこういうことになり、わたしとしても責任を痛感し、一日も早く身をひくのがよいと考えたのです。過去二年間、最大の課題だった赤字を解消し、また共同ごみ焼却場も建設に着手された。新しい市庁舎の建設起工式も一三日にあげられ、当面の大きな仕事はこれで区切りがつく。一日付で辞表を提出し、二〇日たてば自然退職となるが、たまたま議会があったので、退職日を早くしようと同意を求めることにしたのです」と答えた。そして議会閉会直後、西岡は「いままで手掛けてまいりました諸事業をぜひとも完成」したいと、再出馬を表明した。