昭和四〇年代後半、西暦でいえば一九七〇年代前半は、全国で無数の住民運動体が出現して、地方自治体と地域社会をゆるがすとともに、革新を標榜する首長の増加が目立った時期であった。昭和三〇年(一九五五)を起点とする高度経済成長政策は、たしかに日本を世界有数の経済大国に押し上げた。しかし、重化学工業を中心とする急激な産業発展と国民の消費水準の向上は、一方で公害問題、都市問題、物価問題などを激化させたために、地域住民の生活と福祉の向上要求が住民運動というかたちで噴出したのである。
昭和四六年四月の統一地方選挙は、公害問題が最大の争点となった。東京都では、「ストップ・ザ・サトウ」(佐藤栄作政権批判の合言葉)を掲げた美濃部亮吉が自民党推薦の秦野章に一六〇万票の大差をつけて再選された。それよりも注目すべきことは、大阪府で左藤自民党府政にかわって黒田新知事が出現するという、きわめて劇的な現象が起こったことであった。
四月一一日に行われた大阪府知事選挙の結果、社会・共産両党の推す黒田了一が一五五万八一七〇票を得て当選し、自民党公認の現職知事左藤義詮は一五三万三二六三票で僅少差ながら敗れ、四選を果たすことができなかった。老練な政治家左藤義詮が落選して、政治力や行政手腕についてはほとんど未知数の黒田了一が知事に選ばれたことは、都市住民による旧来の政治や行政への痛烈な審判と把握されるべき出来事であった。黒田知事の出現は「公害知事よ、さようなら」「憲法知事よ、こんにちは」の合言葉どおり、公害のない、健康で文化的な行政を求めた府民の意思の反映であった。その前には、大阪経済のかさ上げに腕をふるい、昭和四五年に万国博を大阪に誘致した政治力は拒否されたのである。
富田林市におけるこの時の黒田の得票は一万五三九三票であった。左藤の一万五九七七票に五八四票及ばなかったというものの、保守・革新は全く五分のたたかいであった。保守基盤の強い富田林でもこのような現象が起こったのであった。
同日の府議会議員選挙では、藤本卯市が一万八八九七票で再選されたが、共産党の有川功が一万一二七一票を得て善戦した。四月二五日の市議会議員選挙の当選者は、共産党二人、公明党三人、社会党一人、ほかの一八人は無所属であった。この選挙では、共産党の稲田順子が三四六五票という大量得票でトップ当選した(二位は一八六九票)。
それから二年後、昭和四八年六月一七日の参議院大阪府選出議員補欠選挙の富田林市での得票は、党派別にみると、自民党四一・〇%、共産党三二・二%、社会党一九・〇%、民社党六・六%であり(公明党は立候補なし)、共産党の躍進ムードが続いた。しかし、四九年二月二四日の府議会議員補欠選挙では、「反共で保守を一本化した」といわれた無所属の三木義成が一万八七九二票を得て、共産党の有川功の八九二二票に圧勝した。
昭和五〇年四月一三日の府知事選挙では、政党としては共産党だけが推薦した黒田了一が一四九万四〇四〇票を得て再選された。有力対立候補とされた湯川宏は一〇四万三七〇二票、竹内正己は九四万七六六四票であった。富田林市での得票をみると、黒田一万四七八九票、湯川一万四一五二票、竹内八六四五票であった。そして、同年八月一〇日の富田林市長選挙において、内田次郎が現職の西岡潔を破ったのである。