市庁舎の完成

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昭和二五年(一九五〇)四月に市制を実施した富田林市は、旧町役場の建物や学校の一部などを利用して事務を行っていたが、二八年五月に木造瓦葺き二階建て(建坪二三〇坪、延べ四二〇坪余)の新築庁舎が完成した。場所は近鉄富田林西口駅前、府道に面していて、敷地は一〇五〇坪余、前庭は豊かであり、『富田林市広報』六月八日付は「薫風紺碧(くんぷうこんぺき)の青空に白壁の雄姿」がそびえたと表現した。

 新庁舎落成式は五月二二日に行われたが、この日は朝から市民挙げての祝賀行事で賑わった。市内各商店街では紅白の幕を張りめぐらし、提灯や日の丸の旗で飾られ、祝賀気分を街いっぱいに漲(みなぎ)らせた。石川鮎釣り競技大会、市民慰安演芸大会、ABC公開放送録音、のど自慢大会、さらには野球、駅伝、柔道、卓球、庭球、ボクシング、ソフトボール、学生相撲大会など多彩な行事が行われた。

写真149 昭和28年完成の木造庁舎 (『市勢要覧』1955年版から転載)

 このように市民の大きな祝福を受けて誕生した市庁舎であったが、社会の急激な変化と発展はやがて建て替えを必要とするようになった。市制実施満二〇年の昭和四五年を期して、新しい市庁舎を建設することになった。その前年の『富田林市市政だより』四四年一〇月六日付は、「将来の発展に対処する庁舎建設」の必要性について、次のように述べた。

昭和二十八年五月に建設した現庁舎は、当時の人口三万一千百六十八人、市職員百七十人の規模のものです。

今年十月一日現在で人口は六万八千四百六十五人、市職員二百九十一人(本庁のみ)で、たいへん狭く、プレハブ庁舎を建てたり、天井裏を倉庫にしたりして急場をしのいでいます。

今後は、さらに金剛東団地などの開発によって、昭和四十九年には人口十万、市職員五百五十人の規模となる都市行政をいまの庁舎で進めることは、とうていできません。そこで将来の発展に対処するとともに、行政水準の向上、市民サービスの向上のために、新しい庁舎を建設することになりました。

 「白壁の雄姿」と讃えられた木造瓦葺き二階建ての庁舎と同じ場所に、七〇一三平方メートルを敷地として、総床面積六八〇〇平方メートル、鉄筋コンクリート造り地上四階、地下一階の行政部門と三階建ての議会部門をメインとする「親しまれるシンボル」(『富田林市市政だより』昭和44・10・6)としての新庁舎が建設されることになったのであった。建設計画は人口一〇万人に備えたものであったが、人口が一五万人になった時には、行政部門である主棟の上部に増築できるように設計されていた。さらに人口二〇万人の時には、議会棟の前に一~二階のピロティーをつくり、その上に六階まで増築する計画であった。

写真150 昭和45年竣工庁舎 (右手前は富田林警察署庁舎)

 昭和四四年一一月一三日、新庁舎建設の起工式が庁舎南側で行われ、西岡潔市長の手で行われた「鎮物の儀」により着工の運びとなった。この一一月一三日をもって、西岡は市長を退職し、一二月七日の選挙で市長に再選されたのである。

 翌四五年一一月三日、文化の日に市制二〇周年・新庁舎落成記念式典が挙行された。西岡市長は、市民に向けたあいさつの冒頭、「昭和二五年四月人口三万余りの静かな田園都市として誕生した富田林市は大規模住宅団地などの開発により、人口は七万人を突破し、その姿も大きく変貌をとげ、活気あふれる近代都市へとたくましくあゆみつづけながら市制二十周年を迎えました」と述べた(『広報とんだばやし』昭和45・11・1)。

写真151 市制20周年・新庁舎落成記念式典

 四五年一〇月完成の市庁舎は、当初は人口一〇万人に備えたものであったが、行政需要のいっそうの増大と市民サービスの向上の必要から庁舎が手狭になり、水道局が庁舎南のプレハブの別棟で業務を行うような状況となった。そこで五八年七月、増築改修工事に着手することになった。前月六月には人口が一〇万人に達していた。

 翌五九年一一月に増築改修を完了した増築棟は、鉄筋コンクリート造り、地上五階、地下一階建てで、建築面積一三四二平方メートル、延床面積六二七二平方メートルで増築棟と既存庁舎との一体性を保つとともに、待合ロビーにゆとりを保つなど、市民に親しまれるオープンスペースの確保に配慮したものであった。