財政再建団体

541 ~ 542

昭和二五年(一九五〇)の市制実施以後、しばらくは富田林市の財政は健全であった。二七年度一般会計決算で二七七八万円の赤字を出したが、翌二八年度から三〇年度にかけては黒字であった。三一年度には四〇六万七〇〇〇円の赤字を生んだが、三二年度には一九〇万七〇〇〇円の黒字となった。

 ところが、昭和三三年度以後、富田林市は深刻な財政危機におちいった。このことについては前章で述べたところでもあるが、各年度一般会計決算の赤字額を記すと次のようになる。三三年度一四八七万五〇〇〇円、三四年度二九三七万四〇〇〇円、三五年度五四八〇万四〇〇〇円、三六年度六〇七〇万七〇〇〇円、三七年度三八一四万六〇〇〇円、三八年度一億八一一六万三〇〇〇円、三九年度一億〇八三七万五〇〇〇円、四〇年度八〇七四万六〇〇〇円、四一年度五二二九万円、四二年度三〇四九万二〇〇〇円であった(『あゆみ―市政30周年記念誌―』)。

 市制実施以来、富田林市は都市的形態を整備充実するなど、行政水準の向上につとめてきた。さらに、たとえば衛生行政が肥大化の一途をたどり、あるいは国民年金、国民健康保険など国の委任事務の増大にもかかわらず、国の補助は不足していた。市にはこれに応えるだけの財政収入の上昇がみられず、歳入と歳出のバランスがくずれた。こうして、赤字財政の原因がつくられたのであった。

 昭和三六年六月、富田林市議会は財政再建案を承認し、同年九月一日をもって富田林市は自治省から財政再建団体の指定を受け、一二月一三日付で再建計画の承認を得た。

 地方財政再建促進特別措置法は、昭和三〇年一二月の国会で成立した法律である。したがって、財政再建団体ラッシュが起こったのは翌三一年のことであった。この年、大阪府内では二二市町が財政再建債を発行して行う財政再建団体に指定された。だから、富田林市が昭和三六年に財政再建団体になったのは、時期的には珍しい出来事であった。昭和三〇年代半ばの時期に財政再建団体の指定を受けた地方公共団体は、大阪府内では富田林市のほかには、三四年七月指定の豊能(とよの)郡東能勢(のせ)村(現豊能町)だけである。このあと、四〇年代前半の時期に再建団体になったのは、四二年一二月の河内長野市、四三年二月の和泉市、同年三月の泉南郡岬町である。