昭和三八年(一九六三)に新しく市長に就任した西岡実は、六月市議会の施政方針の中で次のように述べた(「富田林市議会会議録」)。
本市は昭和三十六年度以来、財政再建団体の指定をうけ赤字解消を目途として諸計画を守り、監督官庁の指導と監督を受ける、ちょうど「直立不動の姿勢」をとらされたような、はなはだ窮屈な行政運営をいたさねばならない団体であります。
しかしながら、生業にいそしむ市民や、将来有為な社会人としての活動を夢にしてそれぞれ励んでおられる市民に思いをいたしますとき、財政再建計画を忠実に実施せんとして設けられた既定予算ではありますが、このままでは市勢の伸展、隆盛を望むことはいささか心もとなく存じます。
新任の西岡実市長は、財政再建団体であるために「はなはだ窮屈な行政運営をいたさねばならぬ」事態であることをこのように強調し、「このままでは市勢の伸展、隆盛を望むことはいささか心もとなく存じます」と述べた。そしてこのあと、「魅力ある富田林市にその体質を改善する要がある」と市政の方向を示した。そのための施策として、青少年センターの建設、有形・無形の河内文化の顕彰などと、竹簾(たけすだれ)やグラスボールなどの地場産業の振興、農家経済の健全化を挙げた。そして「工場はもちろん、中級、高級住宅などを積極的に誘致し、自主財源の増収をはかるため開発事業を推進いたしたい」「南海高野線金剛駅を起点にして本市西南の丘陵地帯に約七千戸をようする金剛住宅団地もいよいよ近く誕生することが確実となりましたので、この新しい都市地帯と本市の中心部および東部地区をつなぐべき路線の新設、これにともなって昭和橋のかけかえ、環境衛生施設の整備充実、上下水道の拡充をはかるとともに学校教育施設等、相当な投資を必要といたします」と、赤字財政の苦境を克服して、「市勢の伸展、隆盛」のため「体質を改善する」意欲を示した。
市長のこのような積極方針は、昭和三六年に立てられた赤字財政再建計画の見直しとなり、三九年度から七か年の財政再建計画に立て直すこととなった。まず財政の引き締め策として、五五歳以上の市職員の退職勧奨、市職員の諸手当節減など、人件費の節減をはかり、財政再建の基盤を確立した。以後、赤字解消額は毎年の計画額を上回り、三年目の四一年度決算で再建計画を一年短縮することができた。
昭和四二年七月、西岡実市長は死去した。そのあと、西岡潔市長が引き継いで財政再建に取り組んだ。四三年度には金剛団地の建設も順調に進み、人口の増加にともなって普通・特別地方交付税が前年に比べ約一億円の増収となり、市税も約四億円に伸びた。これに加えて、競馬・競輪などの収益事業でも約四〇〇〇万円が増え、決算見込みで約一億円の黒字となった。そこで再建計画をさらに一年短縮し、四三年度末で赤字全部を解消して、三代の市長にわたった赤字再建団体から脱却したのである。これによって、四四年度から八年ぶりに富田林市は、国の財政指導を受けずに自主予算を編成できることになった。