ごみ処理

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昭和三〇年代に始まる高度経済成長にともなう大量生産、大量消費のもとで、日本人の生活様式にいわゆる消費革命が起こり、生産―消費―「後の処理」の過程のうち、最後の「後の処理」の問題が「ごみ戦争」という表現で全国的に爆発したのは、昭和三〇年代半ば以降の時期である。ごみ戦争は、東京や大阪のような巨大都市にだけ発生した現象ではない。むしろ、処理施設の整備がおくれた中小都市が、日本経済の高度成長の中で遭遇したのがごみ戦争であったと表現した方が適切である。富田林市でも、人口の急増と都市的生活様式の普及、農業の生産形態の変化によって、塵芥(じんかい)やし尿などの汚物の処理が重大化した。

 昭和三〇年代前半、農村地域では、家庭から排出されるごみは各戸が個々に自家処理をするのが普通であった。市街地では、各戸のごみを肩引き車で収集し、河原で焼却と埋立の方法で処理していた。し尿は馬力車がやってきて汲み取り、農家に還元していた。しかし、このような戦前以来の伝統的な方法では、人口の増加と消費革命の進行にはついていけない。

 昭和三八年(一九六三)一〇月、市は金剛大橋下流の石川河畔に、当時最新式といわれる近代的設備の塵芥焼却場建設に着手した。この焼却場は、既設の焼却場の南側に建坪三三〇〇平方メートル、総工費七五〇万円で建設され、塵芥の完全焼却が可能で、洗煙装置が完備したものといわれた。

写真154 石川河畔(金剛大橋下流)の焼却場

 昭和三八年度は総世帯数九六二三のうち、ごみ収集世帯五四三八、収集率五六・五%であり、年間四四一八トンのごみを市の直営で収集した。この収集ごみのうち、二一六〇トンが焼却、二二五八トンが埋立で処理された。翌三九年三月一五日、新しい塵芥焼却場が操業を開始し、収集ごみ全量の焼却処理が可能と期待された。たしかに焼却量は、三九年・四〇年の両年度が五四〇〇トンと二・五倍に増えて新焼却場の威力を見せた。そして、三九年度の埋立量は一八〇トンと激減した。ところが四〇年度の埋立量は八四三トンに増加し、三六年度の八九〇トンとほぼ同じ状況となった。排出されるごみの増加には、少々の対策では太刀打ちできないことを示していた。

 ごみの収集運搬は、肩引き車からオート三輪、三輪ダンプ、四輪トラックへと能率向上のために新式車に変化した。四一年一〇月から、ごみ収集は一週間に一回実施となった。長い間、すべて市直営でごみ収集を実施していたのが、四三年度から一部を業者に委託することになり、年を追って委託収集が増大した。