昭和四二年(一九六七)一〇月一九日、広域行政でごみの終末処理を行うため、管理者を富田林市長とする二市四町(富田林市・河内長野市・美原町・狭山町・河南町・太子町)の南河内清掃施設組合が設立され、三年後の四五年一〇月、富田林市甘南備(かんなび)の丘陵地に清掃工場が完成した。この工場の焼却炉はオートメーション化された連続燃焼式機械炉であり、処理能力二四時間三〇〇トン(二炉)、一〇年後の昭和五五年の二市四町推定人口四〇万人に対応できる設備であるとともに、煤煙(ばいえん)・臭気などの公害防止のための電気集塵機を備えた最新式のものであった。翌四六年七月には、回転式破砕機による粗大ごみ処理施設が完成した。四七年一〇月一六日には、千早赤阪村が南河内清掃施設組合に加入し、構成団体は二市四町一村となった。
高能力の焼却施設ができると、今までは放置または投棄されていたごみが集められるから、収集量は増える。もちろん、ごみ収集量の増大の根本には住民の生活様式の急激な変化が存在する。燃えないごみ、有毒排煙を発するごみなど、ごみの複雑多様化も進む。七市町村が甘南備の清掃工場に搬入した焼却ごみの量は、南河内清掃施設組合発行『事業概要』の「ごみ処理統計」によると、昭和五〇年度は一日平均一三〇トン(うち富田林市五三トン)、五一年度は一四三トン(同六〇トン)、五二年度は一六一トン(同六四トン)であった。清掃工場の焼却炉の処理能力が「二四時間三〇〇トン(二炉)」とは、二つの炉が一日中フル操業した場合の数字である。八時間操業では二炉で一〇〇トンである。時間延長操業が必要となり、ごみの悪質化とあいまって、焼却炉のいたみが激しく、炉の修理に追われる始末となった。
昭和五三年、南河内清掃施設組合では、河内長野市内に第二清掃工場を建てる計画を打ち出し、同市が用地を選定することになった。五三年九月、河内長野市下里町が候補地となり、翌五四年一一月八日、都市計画決定を大阪府都市計画地方審議会で承認された。しかし、下里町周辺住民の反対は強かった。第二清掃工場建設用地の東約三〇〇メートルにある緑ヶ丘地区のサニータウン自治会(約一四〇〇世帯)と、東約一・五キロにある小山田荘園自治会(約五一〇世帯)は、河内長野市が支出した環境整備費に疑義があるとして、清掃施設組合に対して監査請求をしていた。清掃工場建設に関連して河内長野市が下里地区に環境整備費の名目で支払った七四〇〇万円の算定根拠や支払先、支出金の使途に疑義があるとしたのである。
昭和五五年一二月八日、サニータウン自治会住民は、清掃工場建設の工事差し止め仮処分申請を大阪地方裁判所に提出した。工場ができると西風により焼却の煙が同団地の方向に流れ、大気が汚染され、悪臭、運搬車による騒音、振動などの公害が発生する。これはサニータウン住民の環境権、人格権、財産権を侵害するというのであった。五六年二月には、サニータウン住民が環境整備費を違法な公金支出だとして、損害賠償請求訴訟を大阪地裁に起こした。
強い反対運動によって、河内長野市と清掃施設組合は下里町への建設を断念した。次いで河合寺、清水地区などが候補地となったが、そのたびに反対運動で軒並みに頓挫(とんざ)した。最終的に日野の山林への建設を決めたが、ここでも住民が大阪府公害審査会に調停を申請したため、いったんは暗礁に乗り上げた。その間、第一清掃工場周辺住民(富田林市民)が河内長野市からのごみ搬入を阻止するという行動も起こった(平成五年)。
平成六年(一九九四)二月二三日、南河内清掃施設組合議会は「ゴミの排出と処理にかんする南河内非常事態宣言」を採択した。第二清掃工場が日野・滝畑地区に建設されたのは平成一二年三月であった。同年八月二三日、ごみ非常事態宣言は解除された。