化学肥料の普及、農地の宅地への転換、近郊農業の急激な変化は、し尿の終末処理問題の重大化を招き、ごみと並んで、富田林市の市政上の大きな悩みの種となった。市がし尿の集荷を行い、農家に肥料としての使用を依頼するという伝統的な方法は限界に達したのである。
昭和三六年度末の富田林市の総世帯数は八〇四三、そのうちし尿収集世帯数は四一・二%の三三一八であり、市が収集した七二六七キロリットルは農家に還元した。二年後の三八年度末の総世帯数は九六二三、し尿収集世帯数は六四・一%の六一七三であり、市は収集した一万一四八五キロリットルを農家に還元した。二年間で七二六七キロリットルから一・六倍の一万一四八五キロリットルに増えたことになる。これでは「農家還元」といっても、肥料として使用しきれなくて、余ったし尿が廃棄処分されるという困った事態が生じる。
四〇年度から収集の一部を業者に委託することになり、四四年度には約六八%が業者処理によった。当時の市の保有車両は四輪バキューム四台、ミゼット一台、計五台でおおむね二〇日に一回を建て前に収集に当たった。業者処理は六台使用していた。
処理状況をみると、三八年度までは収集し尿はすべて農家還元、三九年度から四一年度にかけては、農家還元だけでなく、埋立処理という非衛生的な方法がとられた。
四四年度末の世帯数二万一三五九のうち、水洗便所使用は約六〇〇〇世帯(金剛団地五六〇〇、その他四〇〇)で残りの七二%に当たる一万五三五九世帯が旧来の汲み取り方式によっていた。このうち一万一六九五世帯が市の収集対象であった。
昭和四〇年(一九六五)九月、富田林市・美原町・狭山町(現大阪狭山市)の一市二町が「富田林市外二町環境衛生施設組合」を設立し、し尿終末処理施設「富美山衛生センター」を狭山町池尻の通称へそ池の北側に四一年二月着工し、四二年二月竣工、三月に試運転を始め、四月から本格的操業を開始した。この施設は嫌気性加温二段消化方式で活性汚泥法を取り入れ、一日の処理能力は一〇〇キロリットル(一〇万人分)であった。