近代化の道

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昭和二五年(一九五〇)に市制を実施し、三二年一月に東条村を編入した富田林市は、社会的にも経済的にも南河内地方の中心都市であった。しかし、明治期以降、大阪市周辺部の地域の多くが工業発展とともに急激な変化を遂げる中で、富田林市域の町村は、農業を主要産業とし、竹製品・ガラス製品などの家内工業が目立つ程度で、変化の少ない地域のイメージが強かった。

 これには、富田林市域の地理的自然的条件が大きく作用していた。大阪府の南東部に位置し、大阪市街地から遠距離にあり、東に金剛山地、南に和泉山脈を控え、西部は羽曳野丘陵地帯に位置するため、近代的開発には制約条件がつきまとっていた。そのため富田林市域は、大阪府の中では急激な変化が少なく、恵まれた自然と古い歴史的伝統の中でゆったりした歩みを続けてきた。

 東条村を編入した昭和三二年の市の人口は三万五二七四人(三月末現在。『あゆみ―市政30周年記念誌―』による。以下同じ)であった。その後の人口の変化をみると、三三年は三万五六〇三人、三四年は三万六六五八人、三五年は三万七五五六人、三六年は三万八四四九人、三七年は三万九三六二人と、毎年一〇〇〇人程度の増加が続いた。

 同じ近鉄沿線だが大阪市に近い松原市の場合、昭和三二年の人口は三万七〇七七人、三三年は三万八七三九人と富田林市と同規模であったが、三四年は四万二〇〇九人、三五年は四万三一八〇人、三六年は四万七〇三七人、三七年は五万〇三〇一人と、三〇年代後半において加速度的急増を示している。これと比べると、昭和三〇年代半ばまでの富田林市はゆったりと歩んでいた。

 戦後まもない昭和二七年六月、富田林市は西山開発委員会をつくり、羽曳野丘陵一帯に住宅を誘致し、道路を整備し、文化施設を建設する計画を立てた。翌二八年、市は市域に機械・金属および精密工業を誘致し、羽曳野丘陵地を住宅地域として開発し、田畑を残して「田園工業都市」を確立するという都市計画の基本方針を決めた。同じく二八年、丘陵開発計画に応じたかたちで、PL教団(現パーフェクト リバティー教団、略称PL)が本部を富田林市に移し、羽曳野丘陵に病院や学校、付属住宅などの建設にとりかかった。昭和二〇年代後半から三〇年代にかけて、富田林市はこのように近代化の道を模索していたのである。