五万人都市から一〇万人都市へ

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昭和三七年度から、人口五万人の都市をめざして、富田林市開発事業が始まった。市の住宅誘致が軌道に乗り、羽曳野丘陵をはじめ市内各地は宅地造成のラッシュとなった。急激な経済発展と産業構造の転換は人口の都市集中を招き、溢れるばかりに増加した給料生活者たちは住宅難にあえいでいた。住宅需要は拡大する一方であった。富田林市の新しい顔ともいうべき日本住宅公団の金剛団地は、三八年(一九六三)一一月二九日に起工式を行った。次に、三七~三八年に建設された住宅のうち、主なものを記しておく(『あゆみ―市政30周年記念誌―』)。

写真157 造成の始まった金剛団地 (金剛駅から東を望む)

 (昭和三七年)

 新堂地区に誘致した府営住宅は、石川河畔に約一〇ヘクタールを買収し、三七年九月二五日に一七〇戸の建設が終わり、南清水町が誕生した。そして、三八年春まで引き続き五〇〇戸余りが建設された。

 板持地区に誘致した府営住宅は、金剛大橋上流の石川河畔に約三・三ヘクタールを買収し、三七年九月一日に二一五戸の建設が終わり、柏木町が誕生した。

 東洋不動産は、宮町南側丘陵地に約一五ヘクタールの用地を買収し、旭ケ丘荘園分譲地として三八年二月完成をめざし、整地工事がすすめられた(約四〇〇戸の宅地分譲)。

 柴田土地は、錦ケ丘住宅北西の丘陵地に約八・三ヘクタールを買収し、富美ケ丘団地として三八年四月完成をめざし、整地工事がすすめられた(約四〇〇戸の宅地分譲)。

 第一住宅は、喜志駅西側に約三・三ヘクタールを買収し、喜志住宅第一期工事として、約二ヘクタールの整地を完了した(約二〇〇戸の宅地分譲)。

 近畿住宅は、川西駅南側に約一・七ヘクタールを買収し、整地した(約一〇五戸の宅地分譲)。

廿山(つづやま)地区で尼ヶ崎鉄工社員寮建設用地約六・六ヘクタール、北大伴地区に府営住宅用地約六・六ヘクタールを買収。

写真158 完成した南清水町住宅(手前)と建設中の北大伴住宅(奥)

 (昭和三八年)

 三八年五月、府営住宅が新堂地区の中清水町に二三八戸、北清水町に二〇五戸建設された。喜志地区の第一住宅は九〇戸、川西地区の近畿住宅と南郊住宅はそれぞれ二〇戸、西山地区の柴田土地の富美ケ丘団地は六〇戸が完成した。

 このような住宅誘致の成功によって、富田林市の人口は次のように変化した。昭和三七年の人口は三万九三六二人であったが、翌三八年は四万二〇六七人と一年間に約三〇〇〇人も増えた。五万人都市をめざしていた富田林市は、今度は大規模なまちづくりを呼号するようになった。

 その後、昭和三九年は四万五〇〇二人、四〇年は四万九二二四人、四一年は五万〇九二一人、四二年は五万二一二二人と増え続けた。四二年末には金剛団地の入居が始まった。五万人都市を実現した富田林市は、一〇万人都市をめざすようになった。四三年五万四〇〇二人、四四年六万〇四二六人、四五年七万二四一一人、四六年七万八五一六人、四七年八万二四六一人と人口の急増が続き、四八年八万六一五九人、四九年八万八二八八人、五〇年九万〇四二二人とやや鈍化した。