第二次世界大戦後の混乱と復興の時期を経て、昭和三〇年代から四〇年代にかけては、日本経済が急成長を遂げた時期であった。それとともに、大都市圏では第二次産業・第三次産業への構造変革と人口の集中が促進された。大阪府の人口増加は年々、一七万人台であり、増加率にして三%であったが、そのうち三分の二が社会増加によるものであった。このような状況を前にして、流入者をはじめとする給料生活者の住宅問題が重要かつ深刻な課題となった。
戦後日本では、住宅難の解消を目的に公営住宅の建設が進められた。昭和二九年(一九五四)に設立された日本住宅公団は、主として集合住宅(アパート)の集団であるいわゆる団地を建設して、住宅難を能率的に解消しようとした。その関西での代表的なものが三二年に入居が始まった枚方市の香里団地であった。規模の大きさ、ショッピングセンターや小学校などの施設の整備状況、全体的なまとまりなどの点から、日本では第一級の団地といわれた。しかし、このような香里団地でも、住民の日常生活上の要求をどの程度満たしているかという点では十分とはいえず、それ自体、自足的な社会を形成しているとはいえなかった。
それに比べると、大阪府が昭和三三年に建設を決定した千里ニュータウン(吹田市・豊中市)は、大都市近郊の未開発の丘陵地に住宅都市(ベッドタウン)を公共の手で建設し、住宅難の解消を図るだけではなく、理想的な生活環境を達成しようとした大プロジェクトであり、全国的に注目の的となった。大阪の中心地からほど近く、しかも開発の手が伸びていなかった千里丘陵に新しい住宅都市を出現させた大事業は、時代先取りの先見性と決断力のあらわれとして高く評価された。